3~4組のバンドを掛け持ち、ルール全無視でコンテスト受賞… 根本要が語る「スターダスト☆レビュー」デビューまでの歩み

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「四人囃子」があまりにすごかった

 とりあえず1時間目だけ出席し、その後、勝手に東京に向かった根本。オーディションの結果は不調に終わったが、この時に学校が終わってからオーディションを見に来てくれたのが同級生の柿沼清史だ。

 もともとロックバンドをやりたかった根本は柿沼をベーシストにし、ドラマーを紹介してもらって「メロディー」というバンドを結成。地元に近い埼玉県熊谷市で音楽仲間だった杉田裕(現「JAYWALK」のキーボーディスト)もすぐに加わり、グランド・ファンク・レイルロードやハンブル・パイ、ディープ・パープルといった「突き抜けるようなボーカル」が特徴の米英のハードロックバンドをコピーしていた。

 ライブで魅了されたバンドもいる。高2だった1974年8月、福島県郡山市で日本初のロックフェス「ワン・ステップ・フェスティバル」が開催された。かまやつや加藤和彦、沢田研二、シュガー・ベイブなど多くのアーティストに加え、オノ・ヨーコも参加していた。

「ホントはCharさんを見たくて行ったんだけど、結局出なくて。でもその日のトリだった『四人囃子』があまりにすごくて。できるできないは別にして、こういうのをやってみたいなと思ったんです。そうしたら偶然、その日のライブのカセットテープが回ってきて、それを一所懸命コピーしてました。その時のバンド名は『クリスタルウェイブ』でしたね」

 当時の根本らは「自分らの知名度なんて考えることもなかった」そうだが、地元の行田市や練習スタジオのあった熊谷市など埼玉県北部では有名なバンドで、「同世代や後輩世代にあたるミュージシャンらが評価をしてくれていたみたい」と語る。

多いときは3~4組のバンドを掛け持ち

 ギタリストのジェフ・ベックが好きだった根本は、彼が参加したという理由からスティービー・ワンダーのアルバム「トーキング・ブック」にハマった。そんなR&Bも演奏したかったのだが、「これはうちのバンド向きじゃない」と、同時に東京芝浦工大の学生が作っていたバンド「ジプシー」に加入。一方、地元のバンドは「アレレのレ」という名前で活動していた。その他にも、多いときは3~4組のバンドを掛け持ちしていたという。

 1979年の「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)には、ヤマハの渋谷店が推す「ジプシー」と埼玉北部の店が推す「アレレのレ」の両方でエントリー。ともに勝ち進み、関東甲信越大会を迎えたが、根本が掛け持ちしていたことから「アレレのレ」は失格した。

 優勝したのは「ジプシー」だったが、静岡県掛川市の「ヤマハリゾートつま恋」で開かれる本選には「コンテストはもう卒業しよう」と辞退を申し出た。しかし主催のヤマハは「アマチュアに蹴られるようなコンテストじゃない」とメンバーを説得。結果的に「人数増えて出ますけどいいですか?」と、「ジプシー」の7人に「アレレのレ」、さらに楽器運搬の運転手をやっていた友人も加え、総勢12人の「ジプシーとアレレのレ」として出場した。

 この時のポプコングランプリは後に「大都会」を大ヒットさせた「クリスタルキング」。「オラが鎮守の村祭り」を歌った根本らは優秀曲賞を受賞した。「演奏時間5分以内、MCはダメ、ステージから降りることは禁止」という規定を全て破り、「7分以上やって、MCもしたし、ステージを降りて審査員席まで行き、粗品を置いてきた」というハチャメチャぶりが受け、音源に残る当時の会場の様子を聞くと、最も大きな歓声が残っている。

 その後、レコードデビューの話も持ち上がり、根本は「ジプシー」か「そろそろ(どちらのバンドか)決めるときじゃないか」と相談されたという。だが、「ジプシーは僕がいなくてもできるバンド。でもアレレのレは僕がいないと終わっちゃうんだろうな」と考え、「アレレのレ」を選んだ。このバンドが後にスターダスト☆レビューとなる。

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