テレビ局との衝突、黛ジュンからの相談がきっかけで大炎上…「梨元勝」の妻が明かした「日本初の芸能専門レポーター」秘話

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ついたあだ名は「スピーカー」

 しかし、記者としてのこの欠陥こそが「芸能レポーター・梨元勝」を生み出すきっかけの1つとなるのだから、不思議なものである。

 ある時、原稿がいつまで待っても出来上がってこないことに痺れを切らした編集部のデスクがこう命じた。

「梨元、(最終原稿をまとめる)アンカーマンのところへ行って喋ってくれ」

 文章は苦手でも話すのは得意だった彼は、取材メモをめくりながら機関銃のように喋った。情景や人間の表情までをも浮かび上がらせるその取材報告は編集部で好評を博し、晴れて「書かない芸能記者」となった彼についたあだ名は「スピーカー」……。

「あまりにもペラペラ喋るので、報告を受けた人は、『面白い! これなら4ページはいける!』と張り切る。が、よくよく整理すると中身がなくて、2ページにもならなかった、ということもあったそうです」

 と、玲子さんは言う。

「そういう経緯があったので、昭和50年に『アフタヌーンショー』から編集部の記者に出演依頼があった時、『お喋りなら梨元だろ』ということで主人が出演することになった。そして翌年には編集部を辞め、専属のレポーターになるのです」

黛ジュンからの“相談”が元で…

 ペンをマイクに持ち替えた梨元氏は、まさに水を得た魚だった。「突撃取材」を繰り返して一躍その名を轟かせ、昭和55年には歌手・佐良直美とタレントのキャッシーの“関係”をスクープ。ただし、このスクープを巡ってテレビ局側と衝突し、「アフタヌーンショー」をクビになった。

 梨元氏の芸能レポーターとしての歩みは、テレビ局との衝突の歴史だった。その背景に、自らが掴んだネタに対する強いこだわりがあったことは言うまでもないが、「熱意」が空回りして世間から袋叩きにされたこともある。

 伊豆大島の三原山が噴火したのは昭和61年11月。島民全員が避難するほどの大災害となったが、そんな中、梨元氏は歌手の黛ジュンからある“相談”をされる。

「『大島から避難した両親が島に残してきた老犬のことを心配している』という内容でした。で、主人がへりで現地に入って犬を連れ帰り、『黛ジュン、老犬と涙の対面』との内容で放送することになったのです」

 と、玲子さんは振り返る。

「放送を見て、ちょっとマズイんじゃないかと直感したのですが、案の定、娘が通う学校の父兄から自宅に抗議の電話がかかってきた。テレビ局にも苦情の電話が殺到し、結局、主人は取材の名目でしばらく海外に滞在するはめになりました」

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