テレビ局との衝突、黛ジュンからの相談がきっかけで大炎上…「梨元勝」の妻が明かした「日本初の芸能専門レポーター」秘話

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 有名芸能人の私生活や裏の顔を暴き、テレビでレポートする――。それが彼の仕事だった。運命のいたずらが重なった結果、日本で初めての芸能専門レポーターとなった梨元勝氏。「恐縮です」と頭に手をやりながら、テレビのワイドショー全盛期を牽引した。

 そんな梨元氏が肺がんでこの世を去ったのは、ちょうど14年前、2010年8月21日のことだった。パイオニアならではの苦悩に彩られた65年の生涯を、妻・玲子さんの証言を元に振り返る。

(「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「『黄金の昭和』探訪」より「『スーパースター』運命の一日 梨元勝:文章も漢字もダメだったから『機関銃トーク』」をもとに再構成しました)

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日本初の芸能専門レポーター

 梨元氏が講談社発行の女性誌「ヤングレディ」の取材記者を辞め、テレビ番組「アフタヌーンショー」の専属レポーターとなったのは昭和51(1976)年。31歳の時である。

 初仕事はこの年の3月25日に起こった「児玉誉士夫邸セスナ機自爆事件」だ。邸宅に飛行機で突っ込んだのが前野光保という役者だったため、芸能担当だった梨元氏にお鉢が回ってきたのだが、この時以降、彼はマイク片手に主に芸能スキャンダルを追いかけ回す日々を送ることになる。

 それまでにもテレビレポーターは存在したが、芸能の分野を専門にしたのは梨元氏が初めてだった。玲子さんが語る。

「主人が『講談社の仕事を辞めてテレビの仕事をする』と言い出したのは、私と結婚して1年くらいが経った頃でした。正直、『やっていけるかな』と思いましたが、『ダメだったら私が働けばいいや』と気楽に考えていました」

 梨元氏がテレビ番組専属の芸能レポーターとして歩み始めた背景には、「運命のいたずら」というべきいくつかの出来事があった。

文章が書けなくて、漢字も苦手だった

 昭和19年12月、東京・中野で生まれた梨元氏は父親を太平洋戦争で失う。終戦の数年後に母親が再婚してからは、母方の祖父母に育てられた。浦和西高校から法政大学社会学部に進学。卒業後は、大学時代にアルバイトをしていた旅行会社に就職するか、あるいは大学に残ってもう少し勉強を続けるか……。迷う梨元氏の元に、ある先輩が突然持ってきた就職口。それが「ヤングレディ」の取材記者の仕事であった。

 しかし、仕事を始めてすぐに、梨元氏は大きな壁にぶつかることになった。取材記者は取材した内容をデータ原稿にまとめるのが仕事だが、彼はその作業が致命的に遅かったのだ。

「主人は本当に文章が書けなくて、漢字も苦手だった。いちいち漢字を辞書で調べながら書くのであまりにも時間がかかり、編集部の人から『ひらがなでいい』と言われ、本当に全部がひらがなの原稿を渡して呆れられたこともあったそうです」(同)

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