「徳川四天王」を先祖に持つ「超エリート将軍」は、なぜ東條英機打倒に奔走したか
徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の酒井家の末裔(まつえい)にして、恩賜の銀時計と軍刀を二つながらに備える陸軍の「超エリート」。しかし、指揮を委ねられた初の機甲部隊を骨抜きにされて以来、東條英機(とうじょうひでき)とは不倶戴天の関係に。やがて東條内閣の打倒を画策して、公爵近衛文麿(このえふみまろ)に迫るが――。
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ベストセラー『独ソ戦』の著者として知られる大木毅さんは、新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』で、日米英12人の指揮官たちについて、その決断の背後に潜む「教育」や「組織文化」、「人材登用システム」に着目して論じている。同書で取り上げられた一人が、一般の知名度こそ低いものの、日本陸軍きっての「知性派将軍」と目された酒井鎬次(さかいこうじ)である。以下、同書をひもときながら、超の付くエリートだった彼が、失意のうちにライバル東條英機打倒を画策するまでの軌跡を追ってみたい。
陸軍きっての知性派とみなされていた酒井鎬次
第1次世界大戦以来、戦争はいわゆる「総力戦」となった。同時にいかに戦争を指揮するかの命題も変わり、個別の戦闘に勝利するだけでなく、国家のリソースを戦力化するための「戦争指導」の必要性がクローズアップされる。だが周知のごとく、日本はそれに失敗する。政府と統帥部(大本営)は「それぞれの戦争」を遂行し、あまつさえ陸海軍指導部の間にも顕著な対立が存在していた。しかしここに一人、近代的な戦争指導を求めて、ついには戦時宰相東條英機の更迭を画策した将軍がいた。陸軍きっての知性派とみなされていた酒井鎬次だ。
徳川家康の側近中の側近、いわゆる「徳川四天王」の筆頭に挙げられる酒井忠次を先祖に持つ愛知県の名家の出身。幼い頃から軍人を志し、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校(東京)を経て陸軍士官学校に入学。920名の同期生中2番の成績で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。その後も出世街道を驀進(ばくしん)し、陸軍大学校の卒業時にも優等の評価を得て、恩賜の軍刀を受けた。天皇より賜った銀時計と軍刀を二つながらに持つ、「超エリート将校」の誕生だ。フランスを中心とする長期のヨーロッパ駐在中に、第1次世界大戦を実見。帰国後には陸軍大学校教官・研究部主事となり、将来の将軍たちに対して、欧州から持ち帰った総力戦の実際、戦争指導の要諦など、新しい用兵思想を説いた。政治と軍事を分離・並立するものと捉えていた当時の陸軍将校たちにとって、おそらくは衝撃的な講義であったろう。
その酒井に、実戦部隊が委ねられる時が来る。昭和12(1937)年、歩兵第24旅団長に転じていた彼は、改めて独立混成第1旅団長に補せられたのだ。この略称「独混1旅(どくこんいちりょ)」は、日本陸軍機械化の実験部隊ともいうべき尖鋭的な存在だった。第1次大戦で活躍した新兵器である戦車に注目した日本陸軍は昭和9年、初の諸兵科連合機械化部隊である独混1旅を満洲の地に新編。やがて戦車2個大隊、自動車化歩兵1個連隊、機動砲兵1個大隊、工兵隊を隷下に置くようになり、世界水準に照らしても見劣りしない機甲部隊に成長する。その3代目旅団長として迎えられたのが酒井だった。独混1旅はさっそく、大規模な作戦に投入される。昭和12年7月7日、盧溝橋で発生した日中両軍の衝突が、宣戦布告なき戦争に拡大するのを見た関東軍は、独混1旅に出動を命じた。北平(現北京)周辺の掃討戦や通州事件鎮圧などを経て、満を持して蒙彊(もうきょう・現在の内モンゴル自治区中部)方面作戦に臨んだのだが、ここで一人の男が独混1旅の運命を変える。
関東軍参謀長、東條英機。彼が意図したのは、軍隊の仕組みを無視した参謀長の直接指揮だった。参謀長の役割は軍司令官を補佐、助言することであり、もちろん麾下(きか)部隊の指揮権など有していない。ところが東條は関東軍司令官の名を借りて、自ら関東軍蒙彊派遣部隊(独混1旅もその指揮下)を直率。これを「東條兵団」と称したのだった。まさしく参謀の専横、本来ならば軍法会議ものの越権行為だ。だが当時の関東軍を牛耳る東條に楯突く者はおらず、彼は思いのままに蒙彊派遣部隊を指揮する。その過程で酒井中将(昭和12年8月進級)は、東條の能力に対する疑問と不信を強めることとなった。
集中使用してこそ効果がある独混1旅を東條は分散させ、他部隊の支援に当てた。攻撃の尖兵となった支隊への増援として、歩兵、戦車、砲兵、工兵を分派させ、酒井の手元に残されたのはわずか工兵1個小隊。彼が激怒したのも無理はない。作戦終了まで機甲部隊として有機的に運用されることのなかった独混1旅は、東條のおかげでその実力を疑問視されることとなり、昭和13(1938)年8月、解隊の憂き目に遭う。酒井も同年留守第7師団長に転じ、翌年には第109師団長に補せられるが、わずか3カ月後に参謀本部付となり、翌15(1940)年には予備役に編入される。恩賜の銀時計と軍刀を持つ将軍としては、いささか寂しいキャリアであった。
現役を退いた酒井は、用兵思想や戦争指導の研究に没頭する。しかし、この間にも、首相兼陸軍大臣となり、さらには陸軍参謀総長も兼任して、絶大なる権力を握った東條英機の施策に対する不満と苛立ちは高まるばかり。2度の首相経験がある東條の政敵、近衛文麿公爵に接近。近衛を通じた影響力を得て、ひそかに和平運動に踏み込んでいく。酒井の願いがかなえられるまで、そう時間はかからなかった。昭和19年7月18日、サイパン陥落を受けて、内閣は総辞職。東條自身も退役し、予備役大将となった。けれども、倒閣運動に関わった酒井も無傷ではすまない。東條退陣の直後に召集解除され、彼もまた退役軍人に戻ったのである。
軍人としての後半生は東條英機との戦いだった
陸軍きっての「超エリート」としてその名を知られながら、志なかばにして予備役に。軍人としての後半生はほぼ東條英機との戦いだったようにも思えるが、本書の著者である大木氏は、酒井の戦いの意味を以下のように総括している。
「かくのごとく、酒井鎬次の生涯は、持たざる国が総力戦を実行し、そのための戦争指導態勢をととのえることの困難を象徴していたといえる。当然のことながら、酒井の認識とそれにもとづく努力は、国力の限界や社会的・制度的制約に阻まれて(彼にしてみれば、東條英機はそうした矛盾を体現しているかのように思われたことだろう)、実現をみなかった。結局、酒井も、東條内閣打倒により、旧態依然たる戦略策定態勢にストップをかけることしかできず、日本は有効な戦争指導を欠いたまま、敗戦に向かってひた走ることになったのである」(P149より)
優秀な「超エリート」を活用できない組織と、その組織を変えるには至らない「超エリート」。そのまま21世紀の日本にも当てはまりそうな関係性ではないだろうか。
※本記事は、『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第9章をもとに再構成したものです。