”引揚者に食わせるコメなどない!”3 万人近い日本人死亡の背景にあったのは大国間の不信と対立の構図 #戦争の記憶

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 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の10日後には38度線が封鎖され、北側に取り残された日本人は「難民」と化した。およそ32万人いたとされる在留邦人のうち、27万人以上が自分の足で南朝鮮に脱出し、3万人近い人が飢えや疫病で命を落としている。こうした悲劇を招いたのは、ソ連軍が約1年4カ月もの間、日本人を放置し続けたからにほかならない。その背景には東西冷戦の萌芽ともいうべき、米ソ間の不信と対立の構図があった――。

 朝鮮半島に取り残された在留邦人の窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「忘れ去られた英雄」を現代によみがえらせる『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。

2万6000人以上の「棄民」が飢えと病で死亡

 終戦まで南朝鮮に住んでいた日本人の本土への引き揚げは早かった。北緯38度線以南に軍政を敷いた米軍は、早期に送還する方針を徹底させ、1945年10月3日、本格的に送還を開始すると発表した。南朝鮮にいた約45万人の日本人は翌年春までに、ほとんど引き揚げた。その後、南朝鮮にとどまったのは京城(現・ソウル)、釜山(プサン)の日本人世話会職員など限られた人々であった。

 一方、北朝鮮に進駐したソ連軍は1945年8月25日までに、北緯38度線を封鎖した。北緯38度線は朝鮮の土地と民族を二つに分ける“国境”と化していく。北朝鮮に進駐していた日本の軍人は捕虜としてシベリア送りとなり、民間人は自由な移動を禁じられた。
 
 北朝鮮で日本人の正式な引き揚げ事業が始まったのは1946年12月である。その間、満州から南下した人を含め32万人と推定される民間邦人のうち、27万人以上の人が自分の足で南朝鮮に脱出し、2万6000人以上が飢えと病で死亡した。

北朝鮮からの正式な引き揚げが遅れに遅れた理由は……

 こうした痛ましい結果を招いたのは、ソ連軍が在留日本人の生活を無視し、約1年4カ月もの間、日本人を放置し続けたからにほかならない。さらに資料を調べていくと、北朝鮮からの正式な引き揚げ作業が遅れた背景には、米ソ両国の不信と対立の構図が浮かび上がる。

 1946年1月。南北に進駐する米ソ両軍の司令部は双方の間に横たわる懸案を協議するため、京城で代表者会議を開いた。前年12月には米国と英国、ソ連の3カ国外相がモスクワで会談し、朝鮮統一に関して話し合う米ソ共同委員会の設立で合意していた。その予備会談として、両軍司令部の代表者会議では緊急問題が取り扱われた。
 
 米側首席代表は会議直前まで初代米軍政庁長官を務めたアーチボルド・アーノルド少将、ソ連側はテレンティ・シュティコフ上将。シュティコフは北朝鮮においては、ソ連政府派遣の総督的な存在だった。北朝鮮が1948年9月に建国すると、シュティコフは初代ソ連大使に就任している。
 
 代表者会議では、鉄道輸送や南朝鮮による北朝鮮へのコメ供給、北から南への電力、鉱工業製品の供給、郵便物の交換など計15の議題を設定し、「日本人約23万(ママ)人を北朝鮮から日本に送還する問題」も、いったんは議題にのせられた。

コメの供給をめぐり米ソが対立

 代表者会議の議事録によると、1946年1月16日から2月5日まで開催された会議では、ソ連が要求した南朝鮮から北朝鮮へのコメ供給について、米側が難色を示したことで対立が深まっていくのがよく分かる。

 シュティコフ「日本統治下では、南のコメを日本に輸出し、北朝鮮の人民は南からコメの供給を受けてきた。彼らには直ちに、コメを受け取る権利がある。我々の資料では、朝鮮全体でコメの生産量は2600万石あり、このうち2100万石は南朝鮮、500万石が北朝鮮だ。米軍司令部には南から北にコメを供給する責任がある」
 
 アーノルド「日本軍が撤退に伴って食料を接収していった。米国は残っていたコメを不十分な量しか獲得できておらず、他の穀物もすでになくなってきた。南は過去5年平均で、北と満州から370万石の穀物を得ていたが、それも今では得られる保証はなく、深刻な食料不足に陥っている。北に配給することは不可能だ」

 1月25、26日の両日だけでも、米ソはコメの供給問題をめぐって、延々とこうしたやり取りを続けた。

 米軍政庁は1945年秋、南朝鮮に資本主義を普及させるため自由市場制を導入し、コメの自由販売を解禁した。だが、米軍政庁の狙いとは裏腹に、地主らによる投機的買い占めや日本への不正輸出が横行する。その結果、市場に出回るコメは激減し、アーノルドの説明通り、南の余剰米はすっかり、姿を隠してしまっていた。

「引揚者の食料は、米ソどちらが負担するのか」

 日本人の送還問題では2月1日、北朝鮮に残る日本人の送還を3月1日から開始し、5月15日に終わらせることをソ連側が提案し、米国もこれに同意した。だが、ソ連側は同時に、引き揚げる日本人の食料を米側が負担するよう要求。米側は南朝鮮のコメ不足を理由に挙げ、これを拒否する。
 
 ソ連側はまた、日本から引き揚げる朝鮮人が北朝鮮に帰還後、最終目的地に着くまでの食料まで保障するよう米側に求めていた。これに対して、アーノルドは次のように反駁して、ソ連側の要求を退けた。
 
「日本から北の居住地までの食料を、日本あるいは連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)が用意せよ、という要求は公平ではない。ソ連軍司令部は、北から日本の居住地までの全行程について、日本人帰還者の食料を用意する考えなどないではないか。SCAPには北朝鮮の目的港までの食料を依頼するだけで十分だ」

 この直後、シュティコフは突然、「この問題を外すことを提案する」と言い放った。アーノルドは一瞬、意味が理解できない様子で、「第6項(日本人の送還問題)全部という意味か」と問い返している。

送還問題は「先送り」に

 結局、米ソはこの日、「日本人の送還問題」を協議事項から外すことで合意した。

 それどころか、代表者会議は事実上、何の成果もなしに幕を閉じることになった。米国によるコメの供給が不可能だったことで、ソ連はあらゆる米側の要求に応じない姿勢を見せた。

 アーノルドは会議が終わった時、「全面的責任はソ連側にある」と公言した。半面、ソ連側から見れば、米国が北朝鮮の政権とソ連に打撃を与えるために、コメの提供を意図的に拒否したと疑っていた可能性は十分にある。
 
 入手した2月6日付の代表者会議終了に際した新聞発表文の草案には、日本人送還問題を討議した事実さえ、記されていなかった。送還問題は終戦翌年の早い段階で話し合われていたにもかかわらず、米ソは合意に至らずに持ち越されざるを得なかった。

ソ連を非難するアメリカ、これに反発するソ連

 米ソ間で送還について会談が再開したのは6月だった。連合国対日理事会の米国代表ジョージ・アチソンとソ連代表クズマ・デレビヤンコとの間で始まった。しかし、新たな障害が持ち上がる。米側が民間人と同時に、ソ連に抑留されている捕虜の送還を要求したためだ。米側はポツダム宣言に「日本の軍隊は完全な武装解除後、家庭に復帰し、平和で生産的な生活を営むことが許される」とあるのを根拠にして、ソ連側を責めた。
 
 だが、ドイツとの戦争で疲弊していたソ連にとって、日本人捕虜は経済再建に向けた不可欠な労働力であり、簡単に手放すわけにはいかなかった。米側の要求にソ連は反発、会談は7月12日に再び決裂する。こうして日本人の正式な引き揚げは遅延に遅延を重ねていった。
 
 米ソが歩み寄るのは9月下旬になってからのことだった。ソ連が連合国側の強まる圧力と国際的な批判を懸念し、捕虜を段階的に送還する方針に転換したのだった。
 
 引き揚げ史に精通する駒澤大学文学部教授の加藤聖文が著した『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、ヨシフ・スターリンを議長とする行政の最高意思決定機関・ソ連閣僚会議は10月4日に民間邦人と抑留者の送還を決定、関係各機関において送還実施に向けた準備が本格化していく。
 
 米ソ両国は11月27日に暫定的な計画を策定した。ソ連が北朝鮮から日本人の送還、すなわち引き揚げ事業に着手したのは、12月のことだった。

(最終回)

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 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について、全9回にわたって紹介。

 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。

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