「ミエさんが苦手だった」「ブランクはあんたのせいよ」 園まりさんにとって「三人娘」は何でも言い合える“身内同然の存在”になっていた

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交際を隠さない“素直さ”

 44年、横浜生まれ。本名は薗部毬子。幼い頃から童謡歌手やモデルとして活動、渡辺プロダクションに入ったのは父の意向から。本格デビューした62年のうちに「三人娘」で時の人となり、ソロ歌手でも人気が続いた。

 音楽評論家の増渕英紀さんは言う。

「『夢は夜ひらく』(66年)はもともと園さんのヒット曲です。歌詞を変えた藤圭子さん版の方が今では有名ですが、本来、すさんだ曲ではありません。女心を素直に表現した園さんの歌い方はもっと評価されていい」

 63年以来、三人娘、ソロとしてNHK紅白歌合戦に6回連続で出場している。

「全盛期に民謡のアルバムも発表しています。原点は童謡で日本的情緒の表現に長けていた」(増渕さん)

 作曲家の平尾昌晃さんや猪俣公章さん、北陸の有名ホテルの御曹司との交際を隠さない素直さもあった。

 芸能レポーターの石川敏男さんは振り返る。

「園さんの方は本気で、家庭に入り普通の暮らしがしたかったように感じました」

 園さんの稼ぎを散財する父の後始末に追われた時期もある。88年、意外な所に名を現す。高額納税者番付で歌手部門トップに登場。東京・赤坂に弟らと共有していた土地売却の結果だった。

身内同然の存在になった「三人娘」

 三人娘を本格的に再結成し、2005年からコンサートツアーを再開。「もともとポップスが苦手だから」とかたくなに断っていたのは園さんだった。「ミエさんが怖くて苦手だった」と過去の思いを本人を前に言い、「ブランクはあんたのせいよ」と中尾さんに言われても受け止められる仲になる。

 11年には付き人でもあり、母の介護を引き受けていた姉が急逝。弟と父は99年に他界しており、残された園さんが介護を担うことに。自身も08年に乳がんを手術していて満身創痍。15年、本誌(「週刊新潮」)に〈一番心がけているのは「後悔を残さない」こと〉と語り、母の最期をみとる。19年にがんが再発後も三人娘の公演に出演を続けた。

 7月26日、80歳で逝去。

 中尾さんと伊東さんに小物や衣装などの整理を託している。売り出すために事務所が作った三人娘は直言し合える仲間に変化し、身内同然の存在になっていた。

週刊新潮 2024年8月15・22日号掲載

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