「靖国参拝」の問題はA級戦犯合祀ではない… テロリストも顕彰する“薩長に寄りすぎ”の史実

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長州藩に忠義を尽くせば合祀される

 同様の例は挙げ出せばキリがない。

 文久元年(1861)、イギリス公使オールコックが、仮公使館にしていた江戸高輪の東禅寺で襲われた。このときオールコックは無事で、水戸浪士ら12名の刺客は斬られたり、逃げられずに自決したりした。一方、警護に当たっていた幕臣らも2名が斬殺された。やはり許されざるテロだが、12名の刺客は明治22年(1889)に靖国神社に合祀され、その後、官位も追贈された。ところが、テロに襲われ命を落とした2人は、幕府側の人物だったので、無視されたままとなった。

 文久2年(1862)には老中安藤信正が、水戸藩士6人に襲われる坂下門外の変が起きた。安藤は軽傷で済んだが、浪士6人は斬り殺され、遅刻した1人は自決した。浪士たちの斬奸状によると、安藤が桜田門外の変ののちも悔い改めず、外国と親しくする「神州の賊」だから、殺す必要があったのだそうだ。そんな滅茶苦茶な理由でテロを起こした6人ばかりか、遅刻した1人までもが、明治になると靖国神社に合祀され、官位も追贈されている。

 坂下門外の変で幕府の権威がさらに失墜し、薩長政権の樹立に近づいたのが評価されたことはいうまでもない。しかし、安藤らも日本の将来を考え、苦渋の決断を重ねたに違いないのだが、それはまったく評価されない。

 文久3年(1863)、八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都から追放されたのち、尊攘派の中心だった長州藩は、薩摩藩などの民間の船を二度も砲撃する愚挙を犯した。このとき、長州の2人の下級武士が、おそらく無実であるのに藩を救うために腹を切った。このため長州では「大忠臣」とされたようだが、そんな2人も明治になると靖国神社に合祀されている。その理由は、長州藩に忠義を尽くしたこと以外、考えられない。

祖国のためでも薩長のためにならなければダメ

 その後、長州藩では内戦が起き、幕府への抗戦を主張する正義派と、恭順を主張する俗論派に藩論が分裂した。主として下級武士で構成されたこの正義派が、以後、倒幕の中心勢力になり、明治政府の主要メンバーになっていく。それにあたっては、中立派の藩士たちも鎮静会議員と称して、反政府から俗論派を追い出し、正義派に主導させるべく動いた。

 慶応元年(1865)2月、そんな鎮静会議員らが襲われ、3人が命を落とした。この暗殺事件は俗論派の仕業とされ、以後、反政府から俗論派が締め出されるきっかけとなった。したがってその3人は、長州藩内の主導権争いで、のちに明治の藩閥政府を構成する面々が浮上するきっかけをつくったことになる。

 その功績が讃えられてのことだろう、明治21年に靖国神社に合祀され、その後、3人とも正五位を贈られた。ところで、桜田門外の変でも、坂下門外の変でも、靖国に合祀されたのはテロの首謀者たちだったが、ここでは被害者が顕彰されている。一見、矛盾があるように感じられるが、基準は薩長政府の樹立に貢献したかどうかだと考えれば、すべて辻褄が合う。どんなに「祖国のため」の行為であっても、「薩長のため」になっていなければ、一切評価されないのである。

 明治元年(1868)に起きた、イギリス公使パークスが浪士2名に襲撃された事件を見るとわかりやすい。このときパークスは無事で、襲撃犯は1人がその場で斬り捨てられ、もう1人は捕らえられて首を斬られた。少し前なら、彼らは外国人を懲らしめた「烈士」と讃えられ、顕彰の対象になっただろう。ところが、すでに薩長が開国路線に転換したのちの事件だったので、彼らが靖国に合祀されることはなかった。

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