沖縄陥落で延期、玉音放送で予定変更…まさかの展開で「特攻命令」を免れた元学徒兵たちの証言「ハァーって溜息が出るような気持ち」
第1回【ゼロ戦で墜落死したはずが棺桶の中で蘇生、仲間が「生きているぞ」と大騒ぎして…太平洋戦争「出陣学徒」たちの壮絶体験】からの続き
持ち慣れぬ小銃を手に、約3万人の学生が外苑で雨中を行進した「出陣学徒壮行会」は、昭和18年(1943年)10月21日に行われた。徴兵された学徒は10万人以上。すでに太平洋戦争の戦況は悪化の一途を辿っており、多くの「出陣学徒」は短い訓練のみで戦地へ向かった。その中には「特攻」を命じられた者もいる。
今から約20年前、壮行会から60年後の2003年に、元学徒たちは当時の体験を詳細に語っていた。第2回では奇跡的な偶然で特攻から免れたエピソードを中心にお伝えする。
(全2回の第2回・「週刊新潮」2003年41号 「特別読物 『学徒出陣』10万人の60年」をもとに再構成しました。文中の年齢、肩書、年代表記等は執筆当時のものです)
【写真】特攻機で敬礼するパイロット、「出陣学徒壮行会」に参加した3万人の若者、実際に届いた徴兵検査通達書…忘れてはならない戦争の記憶
朝に目覚めて「ああ、今日も生きていた」
日本軍が特攻という自滅的な攻撃方法を決行したのは、学徒出陣の翌年、昭和19年10月下旬のレイテ沖海戦からである。この時、ベテランパイロットが乗りこんだゼロ戦5機は、体当たり攻撃を敢行し、護衛空母1隻撃沈、3隻中破という目覚しい戦果を挙げた。
以降、特攻は本土防衛の最終手段として多用されるようになった。学徒兵のパイロットたちも射撃でなく、体当たり攻撃の訓練に明け暮れたのだ。
「いずれ特攻をするのはわかっていても、訓練では死にたくなかった」
と、打ち明けるのは野田新太郎氏(82)である。
「両翼に250キロずつ、計500キロの爆弾を抱えての飛行訓練でしたから、実に際どい訓練を続けさせられました。高度からの急降下の訓練では、途中で機首をあげようとしても、重すぎてドンドン降下して、海面スレスレでやっと水平飛行に戻り、難を逃れるといったことがしばしばです。実際に、訓練中に亡くなった特攻隊員の方がかなりいますし、毎日が緊張の連続で、朝、目を覚ますと“ああ、今日も生きていた”と残り少ない日々を過ごす感覚でした」
野田氏は、昭和20年5月、沖縄に向けて飛び立ったが、夜間のスコールで僚機とはぐれて、屋久島に不時着。重体だったが一命を取りとめたそうだ。
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