ゼロ戦で墜落死したはずが棺桶の中で蘇生、仲間が「生きているぞ」と大騒ぎして…太平洋戦争「出陣学徒」たちの壮絶体験

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残飯を手掴みで食べさせられたことも

 後に陸軍のパイロット候補生となった飯塚康雄氏(80)も、

「昼間は演習に次ぐ演習でしたが、古兵たちの苛めに比べれば幸せな時間でした。やれ、服の洗濯の仕方が悪いとか、靴の磨き方が悪いとかで、靴底を舐めさせられてビンタ、ビンタ。他にも柱に抱き着いて、蝉の真似をさせられたり、2つの椅子の間で、腕で体を支えてペダルをこぐ真似をする自転車とか……。残飯置き場に捨てられた残飯を手掴みで泣く泣く食べさせられたこともありました」

 昭和19年から20年にかけて、戦況は一段と悪化。その鬱屈が不条理な苛めに拍車をかけたに相違ないが、敗色が濃厚になるにつれ、陸軍ですら物資の調達がままならぬ状態となったという。飯塚氏が続ける。

「その後、私は見習い士官となって飛行学校に入るのですが、練習機で離着陸の訓練をしていると、まもなく内地でガソリンがなくなり、“南方に行けばガソリンがある”という理由でマレーシアの飛行練習隊に転属となったのです。しかし、それも輸送船不足のために、移動に3カ月以上もかかり、現地では、ガソリンはあるものの、今度は飛行機の部品が足りず、結局、飛行訓練は打ち切りとなりました」

棺桶の中で蘇生し見習い士官に逆戻り

 同時期、海軍は飛行訓練を続けられるだけの燃料を確保していたが、即席の訓練を続けた結果、事故が相次いだという。九死に一生を得たのは、専修大学から、海軍航空隊に入隊した丸尾穂積氏(80)である。

「ゼロ戦の飛行訓練中に、高度70メートルくらいで突然エンストを起こして失速し、畑に墜落してしまったんです。私は意識を失っていましたから、後で仲間たちから聞いた話ですが、飛行機の機首は5メートルも土の中にめり込んでいたそうです。それを掘り起こしてもらったら、私は計器盤に顔を突っ込んで頭が割れ、頭蓋骨も骨折。歯も殆ど折れていました。しかも操縦桿が左胸に突き刺さっていた。

 そのまま、航空隊の病院に運ばれて、軍医から死亡の診断が下され、殉職となりました。ところが、通夜をしている時に、私が蘇生して無意識のうちに棺桶を蹴っ飛ばしたらしい。仲間が“生きているぞ”と大騒ぎして、生存が確認されたそうです。なんで左胸に操縦桿が刺さったのに生きていられたかっていうと、どうも私の心臓が“普通の人よりも右寄りにあった”という説明でした。

 一旦は、殉職で1階級特進し、海軍少尉になったのですが、生き返ったから見習い士官に逆戻りですよ。もちろん、蘇生しても重体には違いないから、この時、17人の仲間が血液を輸血してくれましてね。そのお陰で私は助かりました。けれど、逆にその17人は半年後、大半が沖縄での特攻で亡くなってしまいました」

 丸尾氏は、その後も2回ほど練習機で空中衝突や墜落の事故を経験したが、奇跡的に助かり、大事には至らなかったという。

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