ゼロ戦で墜落死したはずが棺桶の中で蘇生、仲間が「生きているぞ」と大騒ぎして…太平洋戦争「出陣学徒」たちの壮絶体験

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徴兵検査の“M検”に閉口

 当時、早稲田大学の学生で、実際に外苑を行進した溝口義方氏(79)が振り返る。

「その日、私は学帽を被ってゲートルを巻いて、行進したことを覚えています。外苑には自分の家から直接向かいました。三八銃はたしか自分の家から持っていったと思いますが……。出陣に関して、周囲からは盛んに“お国のために行くのだから……”と何度も聞かされていましたから、緊張はしましたが、特に昂ぶるわけでもなかった。

 覚えているのは、東條首相に“頭、右”をした時に、その後ろ側のスタンドに女学生が大勢いて、声援を送ってくれていたことです。雨は土砂降りではありませんが、下がぬかっていて、きちんと行進するのが大変でした」

 戦時中とはいえ、それまでは比較的のんびりと暮らしていた学徒たちは、この日を境にそれぞれの運命に翻弄されることとなった。徴兵検査での苦い思い出を語るのは寺尾哲男氏(80)である。

「学生は、それぞれの本籍地で徴兵検査を受けるのですが、僕の場合は、2~3時間かかりました。身長、体重から始まって視力、聴力などの簡単な物ですが、一番閉口したのが、通称“M検”と呼ばれる検査でしたね。この“M”はMANの略で、つまり、男性自身を衛生兵に見せて、ギューッとしごかれるんです。性病に罹っていないか調べる検査ですが、これが嫌でね。みんな揮を脱いで順番に並んでね。それから、後ろ向きになって痔持ちかどうか、肛門をチェックされる検査までありました」

 徴兵検査は、学生がはじめて軍隊と接する通過儀礼だが、合格すれば、即、12月の入隊が決定。今までの生活とは打って変わった苛酷な日々が始まったのだ。

やっかんだ古兵たちの鉄拳制裁とビンタ

 最初に降りかかった試練は歴戦の古兵による苛めだったという。学徒出陣の目的の1つは、将校不足を補うことであったが、未来の士官殿も最初は二等兵。ブリヂストンサイクル元会長石井公一郎氏(79)の体験談。

「僕は、甲府にあった陸軍の歩兵連隊の機関銃中隊にいたんですが、それはしょっちゅう殴られていましたよ。初年兵15人くらいの斑に、上等兵とか一等兵が3人くらい目付け役としてついていまして、銃口に煤がついていて手入れが悪いとか、集合が遅いとか難癖をつけられてはぶん殴られたものです。1人が殴り終わると、離れたところにいた上官に呼ばれて、殴られた理由を尋ねられるわけです。

 仕方無しにもう1度報告すると、“貴様何をやっとるんだっ”って、また殴られる。殴り倒されても、すぐに立ちあがらなきゃ、殴られるし、“よくもやりやがったな”なんて顔したらもっとやられる。僕は奥歯の臼歯が真っ二つに割れてね。ブラブラしているもんだから、自分の手でねじり取りましたよ。運が良かったのは、3カ月ほどで、陸軍経理部の試験に合格して経理訓練のために転属になったことですね」

 ビンタと鉄拳制裁は日本軍の十八番。特に士官候補生となることが見こまれていたため、叩き上げの古兵たちのやっかみを一身に受ける結果となったのだ。

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