「1機撃墜500ドル」で戦争を請け負った「空の傭兵部隊」のすご腕ボス

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 アメリカ軍の腕利きの操縦士だった男は、軍隊組織と反りが合わず退役。しかし軍事顧問として赴いた中国で、空の傭兵部隊「フライング・タイガース」を組織し、日本軍相手に大活躍する。

 ベストセラー『独ソ戦』の著者として知られる大木毅さんは、新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』で、日米英12人の指揮官たちについて、その決断の背後に潜む「教育」や「組織文化」、「人材登用システム」に着目して論じている。同書で取り上げられた一人が、米国軍人でありながら、中国で傭兵部隊を指揮したクレア・L・シェンノートだ。以下、同書をひもときながら、彼の生涯と他に類を見ない戦歴を追ってみたい。

中華民国からの誘いで軍事顧問に

 フランスからの移民を祖先に持ち、テキサス州に生を享けたシェンノートが初めて軍隊と関わりを持ったのは、ルイジアナ州立大学でROTC(予備将校訓練団)の講習を受けた時のことだ。軍隊指揮に必要な知識・訓練を大学生に施し、修了者には予備将校の資格を与えるこの制度は、シェンノート以外にも幾多の高級将校を輩出している。陸軍士官学校以外の複線的な幹部登用コースとして、現在もなお米陸軍の強みとなっている。

 米国の第1次大戦参戦により陸軍入りを決意したシェンノートは、通信隊の一部門であった航空隊に配属される。実戦には間に合わなかったものの、大戦終結後も軍に残った彼は、間もなく操縦士として頭角を現す。大尉に進級したのち、1930年代半ばにアクロバット・チームを結成し、腕利きパイロットとしてその名を轟かせる。

 しかし、より重要なのは彼がこの時期、将来の空中戦では単機同士の格闘戦ではなく、2機一組の「ペア」を単位として組織的な戦闘を行うべきだと主張したことだ。ドイツ空軍がスペイン内戦の教訓から、やはり2機一組の「ロッテ」戦法を編み出したことは有名だが、それよりもはるかに先んじていたシェンノートの主張はしかし、当時の米軍内では受け入れられなかった。さまざまなあつれきを経験した上、体調の不安もあったため、少佐にまで昇進していたにもかかわらず退役を決意する。そんな彼に舞い込んだのが、軍事顧問として航空隊の教育・訓練に協力してほしいという、中華民国からの誘いだった。1937年、日中戦争勃発の2カ月前のことだ。

 当初の契約期間はわずか3カ月で、報酬は月額1000ドル。中国空軍の施設や訓練所を査察したシェンノートが、国民航空党委員会の秘書長だった宋美齢(そうびれい・蒋介石夫人)に提出した報告書は、およそ否定的なものだったが、それがかえって彼を顧問の座に留まらせることとなる。首席航空顧問に任命され、中国空軍パイロットの訓練を支援する一方、自らも米国製カーチスH-75戦闘機に搭乗して偵察任務に従事する。日本軍が航空優勢を確保し、新首都となった重慶に大規模な空襲を仕掛けてくるに至って、シェンノートは蒋介石の密命を受けて米国に旅立つ。航空機の供給とパイロットの派遣を要請するためだ。

 そんな余裕はないと消極的な政府首脳が多数を占める中、ついにフランクリン・D・ローズヴェルト大統領の承認を得て、カーチスP-40戦闘機100機の調達に成功する。しかし航空機以上に困難を極めたのが、パイロットの確保だった。大統領令により陸海軍パイロットの募集は可能となったものの、当時中立国だったアメリカは、表立って一方の交戦国である中華民国に兵員を派遣することは難しい。

 そこで「中央航空機製造会社(CAMCO)」なる民間企業を隠れみのにして航空機を供給。パイロットは航空機の組み立て、修理、整備要員として派遣するという奇策に出た。米国内の基地を巡って募兵を行い、契約に応じた者には高額の報酬と、空中戦での撃墜、地上撃破を問わず「1機500ドルのボーナス」が約束された。その結果、操縦士と整備員合わせておよそ300名の空の傭兵部隊「フライング・タイガース」が誕生する。

アメリカ陸軍に正式に編入

 1941年12月、第1アメリカ義勇兵団(「フライング・タイガース」の正式名称)は、中国雲南(うんなん)省の昆明(こんめい)とビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン(現ヤンゴン)に展開。いわゆる「援蒋ルート」に攻撃を仕掛けてくる日本軍と対決。ラングーン上空の初戦では戦爆連合編隊を迎撃し、日本軍をさんざんに悩ませる。

 翌年、「フライング・タイガース」は正式にアメリカ陸軍航空軍に編入され、シェンノート自身も少佐の階級で軍に復帰。1年のうちに少将まで昇進して、第14航空軍司令官に。しかし、もともと軍隊組織に適応できず退役した過去を持つ彼は、またも中国・ビルマ・インド方面の司令官であるジョゼフ・スティルウェル陸軍中将と対立。戦場を去ることとなった。

 太平洋戦争終結後の1945年10月、少将で退役したシェンノートは反共の闘士となる。民間の航空会社を設立し、国共内戦では盟友・蒋介石率いる国民党軍を、インドシナ紛争ではフランス軍を支援した。名うてのパイロットとして名を轟かせ、「フライング・タイガース」を率いて華々しく戦った経歴からすると、軍人としての晩年は必ずしも恵まれていたとはいえないだろう。しかし大木氏はシェンノートについて、以下のような興味深い指摘をしつつ、彼を扱った章を閉じている。

「アメリカ軍の複線的な登用コースによって脚光を浴びながら、しょせんは傍流にとどまったといえる。マーヴェリック(引用者註:「焼き印のない牛」、すなわち異端者の意)の悲哀というべきか。

 もっとも、彼が自らを不幸であると考えていたかどうかはわからない。というのは、1958年には、長年の貢献を嘉(よみ)されて空軍名誉中将の階級を与えられており、私生活では中国系米人陳香梅(チェンシャンメイ・英名アン)をめとり、2人の娘に恵まれたからだ。

 シェンノートは、1958年7月27日にこの世を去った。死因は肺ガンで、長年ヘビースモーカーであったことに由来すると推定された。彼と2番目の妻の遺体は、アーリントン国立墓地に埋葬されている」(105頁より)

 機首には「シャークマウス」と呼ばれるどう猛なサメの口、機体側面には羽の生えた虎のイラスト。アメリカの戦闘機を象徴するアイコンとして、いまだにミリタリーファンの間で人気の高い「フライング・タイガース」。指揮官のシェンノートもまた、そんなイメージを体現する面構えだ。「マーヴェリック」の名が似つかわしい軍人には、士官学校出のエリートには決して持ち得ない味わいがある。

※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第6章をもとに再構成したものです。

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