「これは地獄図だ」強制収容された日本人難民の2人に1人が命を落とした“死滅の村” #戦争の記憶
1945年8月、朝鮮半島。敗戦の10日後には38度線が封鎖され、北側に取り残された日本人は「難民」と化した。北朝鮮で死亡した一般邦人の数は終戦以降1946年春までに約2万5000人に達したと記す資料もある。なかでも、咸鏡南道(ハムギョンナムド)の道都・咸興(ハムン)における死者は6000人を超えた。この咸興近くの村には、北朝鮮で最多の日本人犠牲者を出した収容施設があったという――。
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朝鮮半島に取り残された在留邦人の窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「忘れ去られた英雄」を現代によみがえらせる『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。
強制移住を命じられた在留邦人たち
咸興の南約30キロに位置する寒村、咸鏡南道定平(チョンピョン)郡富坪(プピョン)。1945年12月2日、ソ連との国境近くから咸興に避難していた日本人3282人は寒空の下、無蓋車に乗せられて、この寒村に移送された。咸興における日本人の密集状態を解消するため、ソ連軍と咸興市人民委員会が富坪への強制移住を命じたのだった。移送された人々は咸鏡北道(ハムギョンプクド)の山中をさまよい、苦難の末に咸興に辿り着き、市内の旧遊郭地域に収容されていた人々だった。
松村義士男(ぎしお)や磯谷季次(いそがやすえじ)は、富坪への強制移住が決定した同年11月下旬、ただですら衰弱している避難民を移動させれば、多くの死者が出ると予想して、計画を思いとどまるよう朝鮮側に懸命に訴えた。だが、中止の嘆願は聞き入れてもらえなかった。
「荒れ放題」の兵舎に押し込まれて
避難民が富坪で収容されたのは、旧日本陸軍の演習廠舎だった。兵舎は日本兵捕虜が去った後、補修されずに荒れたままになっていた。9棟ある兵舎に、1棟当たり300人から400人が収容された。富坪で収容生活を送った北村秋馬(ときま)は、桜井二郎というペンネームで2008年に『死の冬──十四歳が見た北朝鮮引き揚げの真実』という回想記を発刊した。その中には収容所の詳しい記述がある。
〈各棟の広さは、横が二十五間、縦が六間の約百五十坪ほどである。通路を除くと残りは八十坪しかない。そこへ三百人を超える難民が割り当てられた。一坪に四人弱、畳一枚に二人が寝起きすることになる。あいにくこの兵舎の床は板張りだ。土間の通路から一尺ほど高い。仕切りの壁の代わりに、兵士が銃を置く銃架があった。(中略)
なにしろ荒れ放題の兵舎であったためか、窓がありながら窓枠もなく、師走の寒風は容赦なく吹き込んでくる。叺(かます・筵で作った袋=引用者注)を開いて窓に張りつけ、なんとか寒風を遮ることができた。室内には暖房用のぺーチカがあったが、燃料の薪も乏しく、暖めるほどの効果はなかった〉
ソ連軍は収容者の外出を禁じ、兵舎の近くでは朝鮮人の保安隊が目を光らせた。人民委員会からの配給はコメと雑穀を合わせて1人当たり1日2合。副食は出なかった。
避難民は寒気が吹き込むのを防ごうと、ガラスが落ちた窓に叺をぶら下げた。そのため、屋内は日中でも暗かった。収容所に電灯が灯るようになるのは、翌年2月を待たねばならなかった。
「飢餓の村、死滅の村なり」
年を越した1946年1月になると、ソ連軍や人民委員会に、収容者約600人が死亡したという情報がもたらされた。同月半ば、ソ連軍司令部と咸鏡南道人民委員会保安部、同委員会検察部、咸興日本人委員会は実態を把握するために合同調査団を構成し、富坪に急派する。
調査団に参加した李相北(リサンブク)がまとめた「富坪移管日本人状態調査報告及意見書」によると、死亡した収容者の数は1946年1月10日時点で、累計575人、脱出者は306人。残留者2401人のうち、「活動可能男女」(ある程度動くことができる男女)の総数はわずか500人。さらに栄養失調と感染症患者は合わせて708人とある。「富坪報告書」の一部を抜粋する。
〈移動日本人の一般状態
移動直前に道市委員会幹部と保安部責任者が定平保安署に出張し、日本人避難民三千余名を富坪に移動することを提議し、其の収容に対する準備を協議したる結果、主食物及び副食物はもちろん、寝具と宿舎施設の完備まで責任を持つと言明し、承諾したるにも拘らず、道市人民委員会は移動以来、米穀三十六石と雑穀二十四石の配給をなしたるのみにて、住居施設、副食物、衣類、寝具等には何らの援助もなさず、そのために三千余名の生活物資を微かな地方の自力にて援護し来たれるも、道委員会の全幅的支持なき限り、日本人避難民の悲惨なる現状打開の可能性なし。
ソ軍当局は日本人の外出を許可せず、種々交渉したるも実行できず、十日現在も捕虜収容所の如く厳重に監視し、外出も許可されず、その結果、日本人は自由に物資を購入する機会を遮断され、栄養不良と(なり=引用者注)防寒保温は一層不可能となり、かつ促進せり〉
以上の惨状をつぶさに見た李相北は、富坪の避難民収容所について「実に呪われたる存在なり。それは実に煤煙と余りの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり」と述懐している。ガラスがない窓を叺で塞いだ収容施設の中は「白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟」であり、収容所の光景を「死滅の地獄図」と記した。
埋葬した遺体を野犬が…
李相北の報告は続く。
〈老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめく彼らは皮と骨となり、足は利かず立つ時は全身を支えることも出来ず、ブルブルと震え、子供達は伏して泣き、無数の病める半死体は呻き乍ら叺の中に仰臥して居り、暗黒の中に咳に咽びつつ、大人が極度に衰弱せる子供を抱いて食物を作りつつ、其所此所に座して居るのは、実に地獄の縮図以外の何物にもあらず〉
富坪における死亡者は強制移住が始まった1945年12月から1946年4月までの5カ月間で、1486人に達した。脱出者を除くと、実に収容者の2人に1人が死亡した計算となる。150人の子供も孤児になった。
肉親を失った遺族は当初、収容所敷地外のあちらこちらで穴を掘って、死者を埋めていた。しかし、地面が凍結して十分に掘ることができず、野犬が遺体を荒らすケースが続出した。このため、旧日本陸軍がかつて収容所北側に築いた塹壕の跡を掘り広げ、共同埋葬地とした。遺体は莚にくるんで埋葬されたが、死者が増えて墓穴が不足したことから、3段、4段に重ねて埋められた。
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第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男」について、全9回にわたって紹介する。
※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。