「あなたをどうかして守りたいけどなあ」…絶望に襲われた1944年の日本、“ふつうの日本人”が残した「切なくもいじらしい言葉」

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 もし、太平洋戦争の時代にもSNSがあったら、人々は何をつぶやいたのだろうか――そんな発想をもとに4年前から始まったのが、NHKのドキュメンタリーシリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」だ。主婦、鉄道員、学生など、戦時下を生きた市井の人々の日記や手紙=「エゴドキュメント」を収集し、そこに記された言葉をもとに、開戦から終戦までの3年8か月をたどっていく。第4集となる今年は、市民の犠牲が急増した1944年に焦点を当てる。音楽、ファッション、恋……。現代と変わらぬ姿の若者が遺した「最期の言葉」に、耳を傾けてほしい(番組は8月15日(木)19時30分からNHK総合で放送される。NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1944 絶望の空の下で」)。

育児と戦争と ある主婦の日記から

 人々は、1944年という年をどのように迎えたのだろうか。まずは、ある主婦の日記からたどっていきたい。東京に暮らす主婦、金原まさ子さんは、開戦の前の年に子供が生まれ、育児日記をつけはじめた。そのころはアメリカとの戦争を心配していたが、いざ戦争が始まると、熱狂の渦に巻き込まれていった。

《血湧き、肉躍る思いに胸が一杯になる。その感激! 一生忘れ得ぬだろう、今日この日! しっかりとしっかりと、大声で叫びたい思いでいっぱいだ。爆弾など当たらないという気持ちでいっぱいだ(1941年12月8日)》(以下、旧漢字、旧かなづかいを読みやすく改め、適宜句読点を入れました)

 それから数か月間、アジアから太平洋の広大な地域を占領していく日本軍の姿に、金原さんのみならず、日本中が歓喜していく。

 しかし、ミッドウェー海戦(1942年6月)での敗北を機に、日本軍は太平洋で敗退を重ね、部隊の全滅を意味する「玉砕」の報道が相次ぐようになった。言論統制が敷かれていた当時、戦況への不安を口にすることは難しかったが、人々は海の向こうで行われていた戦争が、じりじりと近づいているのを感じ取っていた。1944年2月、4歳になったばかりの娘を思い、金原さんはこう書いている。

《実戦的訓練を為す目的にて、焼夷弾落下を家の中に想定する。土足でふみこんで行って消火訓練をする由。空襲は必至だ(2月16日)》

《可愛い住代!! 空襲の被害の下、あなたをどうかして守りたいけどなあ。愛らしさにかられるとお鼻とお鼻をつけて話し合うような事をする。ついでにお母さまをなめちゃう住代チャンでアル(2月17日)》

 幸せな母子の姿が目に浮かぶような記述と、空襲への切迫感が同居する日記。それが1944年の日常だった。

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