父親は39歳で急逝、母親は心臓手術の後遺症で車椅子生活に、弟は知的障害を伴うダウン症……ドラマになった作家・岸田奈美さんの家族物語

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 話題のNHKドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」。同名エッセイ集の著者・岸田奈美さんの家族の奮闘を描き、笑いと涙が絶妙に同居するストーリーに人気が集まっている。

 父親の浩二さんが急性心筋梗塞で亡くなった時、奈美さん14歳、弟の良太さん10歳。母親のひろ実さんは夫の死に打ちひしがれつつも、二人の子供を一人で支えていかなければいけない重責を担うことになった。

 ひろ実さんの著書『人生、山あり谷あり家族あり』から、奈美さんの誕生、成長を振り返った一節を紹介する。

生まれた時から父親と瓜二つの娘・奈美

 1991年7月25日。天神祭の日の夕方、大阪の日赤病院で奈美が誕生しました。

 待ちに待った私たちの赤ちゃんに会えた日。その感動と嬉しさは今でも鮮明に覚えています。

 この子がいてくれたらもう他になにもいらない! 生まれてきた娘の顔を見て、一番最初に感じた感情でした。そしてその次は、パパにそっくり! いや、そっくり以上。まるで瓜二つの娘の顔に笑っちゃいながらも愛おしい感情で満たされました。

 名前は、岸田の「岸」にちなんで海を連想させる何かにしたいと夫が考えた末に、「波」を奈良の「奈」に「美しい」という字に置き換えて、「奈美」と名付けました。いい名前を考えついたものだと自画自賛し、「我ながらにすごいな」と度々口に出して言うほど満足していた夫の嬉しそうな顔もしっかり今でも覚えています。

 パパにそっくりなのは、実は顔だけではなく。食べ物の好みや話し方、考え方、好きな漫画や人を笑わせる方法まで、奈美が成長するにつれて似ていることがどんどんと増えてきました。

 似た者同士のパパと奈美はとても仲が良く、いくらでも楽しそうに話し続け、時には大笑いしたり、時にはまじめに人生の話をしたり、たまに喧嘩したり。でもすぐに仲直りして意気投合。と、私から見ても気の合う仲良し親子だったのですが、たまに兄妹のようにも見えたりして、とてもいい関係の2人だなと微笑ましく思っていました。

 そんな奈美にも、もれなく反抗期というものがやってきました。何が原因か自分でもわからないけど、ちょっとしたことで機嫌を悪くして話さなくなったり、落ち込んだり。私や夫が良かれと思ってアドバイスなどした日には、「もー! うるさいな! ほっといて!」と、プンプン怒り散らかしていました。

 その日の夜も、いつものよくある光景でした。

 夜、帰宅した夫が、宿題もせずにごろごろ寝そべってテレビを見ていた奈美に、

「早く宿題して寝なさい」

 と言ったのをきっかけにいつもの口喧嘩がはじまりました。

「うるさいな! パパは帰ってきたら嫌なことしか言わないやん! 大嫌いや! 死んじゃえばいいのに!」

 思いつく嫌な言葉をたくさんパパに浴びせて、奈美は自分の部屋に閉じこもって寝てしまいました。

 その日の夜中に、夫は急性心筋梗塞で倒れ、救急車で病院についてから無くした意識を一度も取り戻すことなく、2週間後に亡くなってしまいました。

 いつもなら、どんなに喧嘩していても次の日になれば2人とも何もなかったかのように「おはよう」って挨拶でいつもの一日をスタートできていたはずなのに。その当たり前の次の日はもう二度と来ることはありませんでした。

 奈美がパパに言った最後の言葉は、「パパなんて大嫌い! 死んじゃえ!」になってしまいました。

 言うまでもなく、奈美はパパのことが大嫌いなのではなく、大好きなのに。死んでしまえなんて、本当は1ミリも、いや、1ミクロンも思ってなんかいなかったのに。

 今でも奈美はパパに言った最後の言葉を大きな後悔として持ち続けています。私が死ねって言ったから死んじゃったのかもしれないと。本当はパパのことが大好きなのに、なぜあんな酷いことを言ってしまったんだろうと。

 夫は当然、奈美の本当の思いを知っていました。そんなことを本気で思っているはずはないとわかっていました。だから夫は意識がなくなる前に私に、

「奈美ちゃんはちゃんといい子に成長してる。大丈夫やから。頑張れって伝えてほしい」

 と、薄れゆく意識の中で一生懸命、伝えてくれました。

「奈美ちゃんは大丈夫! 頑張れ!」というパパのその言葉は、今でも奈美の体の細胞の隅々に染み込んでいて、ずっと奈美を支えているように思えます。

 夫はこの世にもういませんが、なぜかいないという感覚が私にも奈美にもあまりありません。人の形をしてはいないけど、いないように思えないのは、パパにそっくり瓜二つの奈美の中に夫は生き続けていて、私はそんな奈美をとおして夫の存在を感じているからなのかもしれません。

進路に悩む奈美さんがやっとぶつけてくれた苛立ちが嬉しかった

 夫が亡くなってからは、奈美と一緒に悲しみをやり過ごし、壁にぶつかったら一緒に力を合わせて立ち向かい、楽しいことはしっかりと何倍も楽しいを感じながらたくさん笑って。時には母と娘、時には奈美が母で私が娘のようになったり。また時には友人だったり同じ志をもつ同志だったり。ほとんど喧嘩もすることなく、とてもいい関係でいることができました。

 しかし、夫が亡くなってから3年後、私が生死を彷徨う病気になり、後遺症で歩けなくなってからはその関係性が徐々に変わってきました。当時、16歳だった奈美には、苦労をかけることが増えてしまいました。

 歩けなくなって落ち込んでいる私のことを元気づけようと、つねに寄り添い、優しい言葉をたくさんかけてくれたり。私が喜ぶ場所に連れて行ってくれたり。弟の面倒をみてくれたりと、とにかく私が嬉しく、楽しくなることを一生懸命に考えながらやってくれていました。私にとって最も頼りになる存在、それが娘、奈美でした。

 少し前にパパを亡くし、今度はママが重い病気で歩けなくなるという、辛すぎる経験を立て続けにしなければいけなくなった、たった16歳の娘には、ただただ申し訳ない気持ちでしかありませんでした。

 本来ならば、わがままを言ったり、自分勝手に行動していいことも、いつも私のことを考えてくれるので、頑張っていい子でいてくれる奈美のことをとてもありがたいと思いつつも、いつか頑張っている気持ちに限界がきて、心が潰れてしまわないかとつねに心配がつきまとっていました。

 そんなある日のことです。

 約2年の治療とリハビリ入院を終え、自宅での生活が始まって間もない頃でした。

 ちょうど奈美は高校を卒業した後の進路を決めないといけない時期でした。

 大学にいくのか、いかないのか。いくならどこの大学か。そのためにどれだけ勉強しなければいけないのか。勉強も進まず、母親のことも気にかけないといけない中で自分が何をしたいのかもわからず。それでも答えを出さなくてはいけないという状況に追い詰められていました。

 そんな娘への、私が思いついたアドバイスは、生前に夫が言っていた言葉でした。

「奈美ちゃんは大学までいってほしい。学歴は大事だから勉強は努力してできるだけいい大学へいってほしい」

 大好きな、似た者同士のパパの言葉なら奈美に届くはずと思ったのですが、その言葉を聞いた奈美は、それまでのいい子の態度とは打って変わり、声を荒げて泣きじゃくりながら私に訴えました。

「そんなこと言わないで! 大学にいったら絶対にいいことあるの? パパとママは大学にいって幸せやったん? そんなふうに思えない! 何のために大学にいかないとあかんの? 私のことなんてわからないくせに、偉そうに言わないで!」

 私が病気で倒れ、歩けなくなってから初めて、奈美が私に声を荒げながら怒りを表してくれました。本来なら娘にこんなふうに言われた時、腹立たしく悲しくなるはずなのですが、この時の私の気持ちは全く違いました。嬉しかったのです。やっと素直に本音を私にぶつけてくれたからです。私に遠慮してわがままも言わず、いつもいい子でいた奈美が、苛立ちや腹立たしい思いをぶつけてくれた。ちゃんと私に甘えてくれたんだ、そう思えたから、娘の反抗的な行動がとても嬉しかったのです。

親子であり、同僚であり、苦楽を共にした同志であり

 そんな奈美に甘えてもらえるように、歩けなくなった私にできることの全てを使ってせいいっぱい支えたいと思いました。あれこれ口うるさくアドバイスをするのではなく、ひたすら奈美を信じて待とう。助けを求められたら、その時は待ってましたと惜しみなく手を差し伸べよう、そう決めました。

 あとは、楽しいと思える時間をたくさんつくって、楽しいと感じてもらえる機会を増やすこと。ドライブしたり、買い物に出かけたり、おいしいご飯を食べたりしながら、お互いに心を全開にしながらいろいろな話をしました。

 進路の話はほぼせずに、お互いに励ましあったり、一緒に落ち込んだり、爆笑したり。そうしているうちに、気づけば奈美は、なりたい自分を見つけ、そのために今何をしたいのかを考え、いきたい大学も決めて受験することになりました。

 優しい社会をつくりたいという、ざっくりとした大きな夢を叶えるためには何をすればいいのか。たくさん悩んだ結果、まずは一番近くにいる歩けない母や、知的障害のある弟が行きたいところに行ける、学びたいところで学び、働きたいところで働ける場所をつくりたいという夢にたどり着き、そのために必要なことを学べる関西学院大学人間福祉学部社会起業学科を受験することにしました。

 今でも奈美は言います。これまでの自分の人生で初めて、夢を叶えるために諦めずに本気で勉強したと。その甲斐あって、見事、志望していた大学に合格し、自分の夢に大きく一歩近づくことができたのでした。

 そして、入学後、間もなく、ユニバーサルデザインのコンサルティングをてがける株式会社ミライロを立ち上げたばかりの2人、垣内(俊哉)社長と民野(剛郎)副社長に出会い、3人めの創業メンバーとして奈美が加わることになりました。

 その1年後、ママもミライロで働いてほしい、一緒にユニバーサルデザインを社会に広めてほしいと、奈美に誘われ、私も一緒にミライロで働くことになったのです。

 娘と同じ職場で一緒に働くという機会はとてもありがたく、頑張っている様子や苦労している状況を、お互いにリアルタイムで見ることができるので、尊敬や信頼、感謝という気持ちがこれまでよりも大きくなりました。語らずともお互いのことをちゃんと理解し、認め合えるようになりました。

 時には耳が痛くなることも言い合いますが、それは相手を思ってこそのこと。本当の意味で、私にとっては誰よりも素直に話せる、頼りになる存在が娘の奈美になっていました。それはきっと、これまでのお互いの経験がどれほど大変なものだったのか、どれだけ傷ついてきたのか、どれだけたくさん頑張ってきたのかを知っている者同士だったからなのかもしれません。

 最近では奈美に頼られることより、私が奈美に頼ることのほうが間違いなく多くなってきました。申し訳ない気持ちと、こんなに頼りになる存在になってくれたことの嬉しさが入り混じったごちゃごちゃした気持ちではあるものの、今が幸せだと思えるのは間違いなく奈美のおかげです。

 これからも奈美には感謝をしながら、奈美にも私を頼りにしてもらえる存在でいられるように、私自身が幸せに健やかに生きていきたいと思っています。

『人生、山あり谷あり家族あり』より一部抜粋・再構成。

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