ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄

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 太平洋戦争中の1945(昭和20)年2月16日から1カ月余のあいだ、東京から南に約1200キロメートルの位置にある硫黄島では死闘が繰り広げられた。2万余名の守備隊が約6万人の米兵を迎撃し、玉砕した「硫黄島の戦い」だ。2006年にクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」がヒットしたことで、若い世代にも比較的よく知られている。

 玉砕の約半年前、1944(昭和19)年6月末から7月にかけての空戦で、硫黄島から出撃した零戦隊が壊滅した。ここで制空海権を失ったことにより、硫黄島は艦砲と爆撃機の攻撃にさらされることになる。この空戦を辛くも生き延びた零戦パイロットたちが、硫黄島の劣悪な環境と地獄の戦場を振り返った。

(全2回の第1回・「週刊新潮」2007年1号 「特別読物 『零戦パイロット』が見た地獄の戦場『硫黄島』」をもとに再構成しました。文中の年齢、肩書、年代表記等は執筆当時のものです)

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洋上に不時着して九死に一生

 平成18(2006)年12月1日、元零戦パイロットの藤田怡与蔵(いよぞう)氏が肺がんで亡くなった。享年89。

 藤田氏は、昭和13(1938)年に海軍兵学校卒(第66期)。昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃に零戦搭乗員として出撃以来、ミッドウェー海戦、南方各地の戦場を転戦。昭和19年6月末に硫黄島に赴き、敵機動部隊の戦闘機との空戦に参加した数少ない生き残りの一人だった。

 戦後、日本航空のパイロットとなり、天皇皇后両陛下(編集部註:現在の上皇上皇后両陛下)が皇太子夫妻の時代にメキシコを訪問した際、搭乗機の機長を務めたこともある。

「父は戦争の話をあまりしませんでした。それは、自分の部下や仲間が何人も亡くなっているので、軽はずみには話せなかったからだと思います」

 と、長男の秀一氏(60)は語る。

「ことに飛行機乗りということで、硫黄島のような戦火の基地から脱出するときには、一番先に声がかかった。そんな点でも他の兵隊さんに申し訳ないという気持ちがあったと思います」

 6月末から7月初めにかけての空戦で、硫黄島の零戦部隊は壊滅。藤田氏の機も被弾したが、洋上に不時着して九死に一生を得る。が、制空海権を失った硫黄島は、艦砲と爆撃機の攻撃に晒された。藤田氏は、硫黄島での体験をわずかながらこう話していたという。

「“アメリカの艦砲射撃に遭ったときには駄目だと思った。洞窟から身体を出すこともできなかったが、目の前の岩が砲弾で粉々になり、その岩粒がまた弾のように飛んできて、当たると致命傷になる”と言っていました」(秀一氏)

硫黄島から帰れないかもしれない

 硫黄島は、東京から南に約1250キロメートルの地点にある。昭和19(1944)年6月15日、米軍はサイパン島上陸と同時に硫黄島の空襲を開始。サイパン、グアム、テニアンなどの島を占領した後、超長距離重爆撃機B29による日本本土の爆撃を行うためには、硫黄島攻略は必須だった。

 これに対し、海軍は硫黄島に航空戦力を結集した。横須賀航空基地から、八幡空襲部隊、301航空隊などが6月下旬に硫黄島に向かう。301空の隊長が、冒頭に紹介した藤田氏だった。部下の岩下邦雄氏(85)は振り返る。岩下氏は海兵69期。これが初陣である。

「硫黄島には本土から航空戦力が続々と投入されていました。硫黄島の千鳥飛行場には301空の零戦が40機陣取り、もう一方の元山飛行場には横須賀からきた3飛行部隊がいました。戦闘機に雷撃機、爆撃機もあり、全部で200機ほど配備されていたと思う」

 藤田氏(当時大尉)と第1分隊長を務める岩下氏(同大尉)が硫黄島に着いたのは6月25日。だが、15日に先発していた第2分隊9機のうち、4機が24日の戦闘で撃墜されていた。

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