「偉い人の逃げ足は速い」ソ連軍の奇襲をよそに、民間人を見捨てて姿を消した日本軍と憲兵隊 #戦争の記憶
1945年8月6日、広島に人類史上初めて原爆が落とされる。日本の降伏は色濃いとみたのか、ソ連はその2日後、一方的に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し、日本の植民地だった朝鮮半島北部の市街地に侵攻した。一般市民も容赦なく戦火にさらされる中、日本軍の要塞司令部は「避難命令を出す必要はない」と明言。しかし、彼ら自身は秘密裏に「ある準備」を進めていた。
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朝鮮半島に取り残された在留邦人の窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「忘れ去られた英雄」を現代によみがえらせる『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。
第2次大戦後、朝鮮半島。知られざる“もう一人の杉原千畝”がいた。当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかったが、6万人もの日本人を朝鮮半島から脱出させ祖国に導いた“忘れ去られた英雄”・松村義士男(ぎしお)。
いきなり狂ったように、空襲警報が
1945年7月半ば以降、約9000人の一般邦人が住む羅津(ラジン)の市街地には、ほぼ隔日で午後11時ごろ、空襲警報が鳴り響いた。食料輸送を遮断するため、沖縄を基地とする米軍のB29が来襲し、羅津港内に機雷を投下していた。ただ艦船や陸地への直接攻撃はなかった。
8月9日未明。14歳で羅津高等女学校3年だった得能(とくのう、旧姓・四家)喜美子は、父親の秀文が勤める「満州電信電話」の宿舎で就寝していた。
「いきなり狂ったように、空襲警報が『ワーン、ワーン』と鳴りだしました。うちの社宅は高台にあったので、カーテンをそっと開けて街を見下ろしたんです。
照明弾が数限りなく落ちてきて、灯火管制されていた街は昼間のように明るくなりました。数百という照明弾。そのせいで、実際には何機来たのか分かりませんが、物凄い数だったように感じました。最初はアメリカの飛行機だと思っていました」
攻めてきたのは「敵国」米軍ではなく……
しかし、B29来襲の定刻とされた午後11時を過ぎていた。北方から飛来したのは米軍機ではなく、数十機のソ連軍用機だった。
終戦6日前のことだった。朝鮮半島内陸部がいまだ平穏を保つ中、満州と国境を接する半島北東部は満州と同様、日ソ中立条約を破棄したソ連軍による突然の侵攻で直接、戦火にさらされたのである。
日ソ中立条約は1941年4月13日、東南アジアへの南進政策を進める日本と、ドイツの侵略に備えるソ連の思惑が一致し、両国の間で調印された。相互不可侵と、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合、他方は中立を守ることなどを定めていた。条約の有効期間は5年だった。
しかし、ソ連は1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツ降伏後に対日参戦することを米英両国に約束する。そして、米軍が同年8月6日、広島に人類史上初めて原爆を落とすと、ソ連は機を失せずに2日後の8月8日、一方的に条約を破棄して日本に宣戦布告したのだった。
応戦するすべを持たなかった日本軍
ソ連軍による最初の羅津への爆撃は、羅津港に浴びせられた。埠頭に積んであった物資や倉庫が炎上した。埠頭のドラム缶は破裂して油が海上に流れ出し、港内は火の海と化した。日本船十数隻はほとんど大破した。
日本軍に応戦する能力は、皆無に近かったようだ。戦前、陸軍は羅津市街に要塞司令部を置いていた。海軍の司令部は羅津の南方に位置する楡津(ユジン)にあったが、戦艦など艦艇は平素、碇泊していなかった。さらに、7月下旬になると、北朝鮮東海岸中部の港湾都市・元山(ウォンサン)への移動命令を受け、司令部は移転を終えていた。
爆撃は街も襲った。得能は家族と共に、自宅の庭に築造された防空壕に退避した。防空壕の深さは約1.5メートルで1畳ほどの広さ。18歳だった兄の秀和が出征する前日の7月末、「役に立つかもしれないから」と言って一人で丸1日がかりで掘ったものだった。得能の回想が続く。
「防空壕の中にいる間も地鳴りがしていました。朝になって、ようやく外に出ると、官舎はほぼ全壊していました。目の前には直径が40メートルほどもあろうかと思われる、すり鉢状の大きな穴が開いていました」
爆撃は10日まで続き、電線はいたるところで切断された。停電でラジオも電話も不通になった。
「避難命令を出す必要はない」
そのころ、羅津沖にはソ連艦船が往来していた。船影を目撃した邦人は、間もなくソ連軍が上陸すると考え、警察や憲兵隊は庁舎を自らの手で爆破した。
驚くことに、要塞司令部は当時、民間人を見捨てている。
羅津府尹(市長に相当)の北村留吉が戦後に執筆した手記には、要塞司令官とのやりとりが記されている。
それによると、北村が8月9日に要塞司令官に会って、戦況を訊くと、「ソ連の来襲は、みな奇異に感ずるが、アメリカその他への義理合上、参加したもので、真から日本と闘う意志があるとは思えない。(中略)丁度、張鼓峰事件※の時のように」と答えた。市民への被害を懸念すると、要塞司令官は「避難命令を出す必要はない」と明言した。
要塞司令官は、今回のソ連軍による空爆について、張鼓峰事件と同様の偶発的な衝突であり、まもなく停戦になるという楽観的な見通しを示し、民間人を避難させる必要はない、と足止めさせていたのである。しかし、実際はソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告したことは、すでに記した通りである。
民間人を見捨てて姿を消した、軍と憲兵隊
北村は翌10日午前、要塞司令部を訪ね、司令官と再び会う。司令官は幕僚と司令部庁舎前に集まり、「何事か協議中」(北村の手記)だった。
北村があらためて市民の措置について意見を質すと、司令官は「まだ市民の避難は時機でない。おそらく、もう停戦命令が下りるであろう」と、前日と変わらぬ考えを示したという。
このころ、軍は憲兵隊と共に、府民に知られないように姿を消していた。「軍機保持のため」と、その理由を後に明らかにしている。
北村が住民に避難命令を出したのは10日午後2時のことだった。避難の遅れは100人を超す民間人の犠牲を生んだ。
※張鼓峰事件……1938年7月にソ連・満州国境付近の張鼓峰で起きた日ソ両軍の軍事衝突で、日本軍は多大な犠牲を出した。両軍は翌月になって停戦。
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第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男」について、全9回にわたって紹介する。
※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。