夏の甲子園、1982年の「幻の完全試合」 史上初の“快挙”はこうして消えた!

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夏の大会史上初の完全試合まであと1人

 そして、7対0の最終回、さすがの新谷も大記録を前に緊張の色を隠せない。
 先頭の7番・川内福一に対して微妙にコントロールを乱し、カウント3-1と苦しくなる。四球を許したらパーフェクトが途切れるというあとがない状況で、新谷は5球目に真ん中直球でストライクを取り、フルカウント。だが、6球目の真ん中高め直球に川口のバットが一閃し、打球は三遊間に勢いよく転がっていった。

 抜ければ安打、追いついても内野安打になりそうな難しい打球。新谷も「ヒットを打たれた」と覚悟した。だが、ショート・小林満喜が横っ飛びに好捕し、執念の一塁送球を見せる。間一髪アウト。何とか記録は継続した。

 バックの堅守に救われた新谷は、次打者・木村武史をこの日8個目の三振に打ち取り、ついに完全試合まで「あと1人」となった。

 この場面で木造・外崎忠彦監督は、9番投手の大沢丈徳に代えて、背番号15の1年生・世永幸仁を代打に送った。

「嫌な思いを下級生が味わって、自分たちの時代に屈辱を晴らさせよう」の考えからだが、ベンチ奥で新谷の投球に合わせて、ひたむきにスイングする姿に「この子なら何かやってくれるのでは?」と予感めいたものもあった。

 一方、新谷は「(速球に慣れていない)代打なので、ストレートだけ要求した」という捕手・田中の指示どおり、1球目に外角直球でストライクを取ったが、2、3球目は内、外角にわずかに外れ、カウント2-1となった。

 そして、運命の94球目、内角を狙った直球が、手元を離れるのがわずかに早くなった分、シュート回転して切れ込んでいく。打ちに行っていた世永は避けきれず、ボールは右腕を直撃。スタンドから「オオーッ!」とどよめく声が上がり、この瞬間、パーフェクトは幻と消えた。

 それでも新谷は気持ちを切らすことなく、次打者・兼平を二ゴロに打ち取り、史上19人目のノーヒットノーランを達成したが、試合後、「死球を与えたとき、ノーヒットノーランでも良いと思ったが、あとで完全なら史上初と聞き、悔しかった」と複雑な表情を見せた。

「27人目の打者」だった世永氏の回想

 筆者は1998年初夏、高校卒業後、就職して福島県いわき市にいた27人目の打者・世永氏を取材する機会に恵まれた。

「できればヒットを打って塁に出たかったけど、今ではいい思い出です」と回想した世永氏は、当時西武でプレーしていた新谷についても、「会ってみたいし、ゲームも見てみたいな」と答えた。

 くしくも西武は1ヵ月後にいわきで日本ハム戦を予定していた。筆者は親交のあったスポーツ紙関係者に「もし、いわきで再会のチャンスがあれば」と西武番記者への伝言を頼んだが、新谷はこの試合の4日前に先発したため、いわきでの登板はなくなった。

 あれから40年以上経った今でも、両者の脳裏には、あの試合のあの瞬間が、甲子園での最も印象深い思い出として、鮮明に記憶されていることだろう。

 夏の甲子園では、完全試合はもとより、ノーヒットノーランも第80回大会(1998年)の横浜・松坂大輔を最後に四半世紀以上も途絶えている。低反発バットが導入され、投手有利といわれる今大会で、新たなドラマは生まれるだろうか。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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