迫る敵を前に、城門を「あえて全開」に… 「徳川家康」の行動から学べること
逃げ場を失った石田三成が頼った相手
豊臣秀吉の死後、秀吉に仕えていた石田三成と、天下を狙っていた徳川家康が対立していたときのこと。家康は、石田三成を嫌う武将たちを次々と自分の味方に引き込んで、三成を孤立させていきました。まだ自分が動くのは早いと思いつつ、着々と天下取りの準備を進めていたのです。
ところがある日、三成を嫌う武将たちが石田三成の屋敷を襲撃してしまいます。
(問題)襲撃を受けて、なんとか屋敷からは脱出したものの、行き場を失った石田三成は自分が生き残るためにいったいどうしたでしょう?
(ヒント)三成は、イチかバチかであるところに逃げ込みました。
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(答え)あえて自分と敵対している徳川家康のもとに逃げ込んだ。
自分の命を狙って屋敷を襲撃してきた武将たちの総大将にあたるのは徳川家康です。にもかかわらず、石田三成は、その総大将・徳川家康のもとを自ら訪ねていき、こう言ったのです。
「もはや、家康様しか頼れる者はいない、助けていただきたい」
これには、さすがの家康も面食らったことでしょう。
おそらくは、「誰かが三成の首をとってくれればしめたもの」くらいに思っていたのに、
まさか、自分を頼って来ようとは……。
自分を頼ってきた豊臣方の人間を殺したとあっては大義が通らない……と考えたのか、家康は三成に、「わかった、命だけは助けよう。ただ、蟄居(ちっきょ=今で言えば自宅謹慎)しなさい」と伝えたのでした。
敵のなかに自ら飛び込むとは、まさに奇策。
結局はこの事件の翌年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こって、石田三成は家康に完敗するのですが。とりあえず、このときの人生最大のピンチは、こんな奇策によって生き延びることに成功したのです。
石田三成が単身で徳川の屋敷に入り難を逃れたというこの話は、古い文献に残っているものの、現在では「のちの創作で事実ではなかったのではないか」といわれています。とはいえ、「本当に困ったときは、敵の懐ふところに飛び込むのもあり」という考え方は、学ぶところありではないでしょうか。
現代の場面で例えてみると?
たとえば、自分が経営するお店のすぐ近くに巨大なショッピングセンターができて、お店が存続の危機に陥ったとき。もしかしたら、「そのショッピングセンターのなかに出店させてもらう」という生き残りの道があるかもしれません。
私の知人の、現在は起業家として成功している方の話です。会社員時代に、ある事情から自分のことを敵視してくる上司がいたそうです。で、その人はどうしたか?その上司からの仕事の依頼は誰よりも早く完璧に行ない、決定事項や悩みなど、あらゆることをその上司に積極的に相談したそうです。
すると、だんだんとその上司の態度が変わってきました。自分を敵視するどころか、最後は可愛がってくれるようになったのだとか。
この策は、「長いものには巻かれろ」とは少し違います。そうではなく、「自分から積極的に心を開いて、敵対する相手の胸のなかに飛び込んでみる」ということです。
何もかもさらけ出して自分のもとに飛び込んで来られたら、人間、邪険にはできなくな
るものです。
(ポイント)あえて敵対する相手の懐に入り、身をゆだねてみる
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この記事の前編では、ニトリの創業者・似鳥昭雄さんが会社の大ピンチをいかにして乗り越えたか、実際にあったエピソードをもとに紹介している。