迫る敵を前に、城門を「あえて全開」に… 「徳川家康」の行動から学べること

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「偉大なる先人」たちの実際にあったエピソードから、ピンチを切り抜けるアイデアを探る。「危機」が「死」に直結する過酷な戦国時代において、2人の有名武将が見せた驚きの振る舞いをご紹介しよう。

 ***

(前後編の後編)

※以下、『一流は何を考えているのか』(西沢泰生著、Gakken)の内容より、一部を抜粋/編集してお伝えする。

絶体絶命の危機を乗り切った徳川家康の知恵

 徳川家康が武田信玄と戦ってコテンパンにやられた「三方ヶ原の戦い」のときの話です。

 命からがら浜松城まで逃げ帰った家康でしたが、武田軍の追っ手は城のすぐ近くまで迫っていました。もし、このまま城を攻められたら降伏するしかない状況です。

(問題)このとき家康が取った、起死回生の行動とは何だったでしょう?

(ヒント:その行動により、武田軍は城攻めをやめて兵を引きました)

 ・・・

 ・・・

 ・・・

(答え)城の城門を全開にして、武田軍の到着を待った。

 これは、中国の兵法書『兵法三十六計』のなかに出てくる「空城の計」と呼ばれる戦
術です。

『兵法三十六計』とは、兵法における戦術を6系統・36種類に分類した書物。ちなみに最後の36番目には、「勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避けよ」とあり、これが「三十六計逃げるに如しかず」という言葉の語源になっています。

 この本を読んでいた家康は、浜松城へ逃げ帰ると、すべての城門を開いて篝火(かがりび)を焚き、武田軍が到着するのを待ち構えました。

 家康を追ってきた武田軍は、その城の様子を見て、「これは何かの罠に違いない」と城に攻め入ることをやめ、そのまま兵を引いたのでした。

 ちなみに家康は、この「空城の計」の用意を終えると、湯漬けを食べ、疲労からか、そのままイビキをかいて眠り込んだといわれています。「打つべき手は打ったから、あとは運を天に任せた……」という感じでしょうか。

 彼の生涯における最大の危機といわれたこの敗戦を、家康はこうして乗り切ったのです。

現代人も参考にした「兵法の教え」

 一見、そんな手に引っかかるなんて……と思ってしまいそうです。しかし、退却を始めた敵に対して、「今がチャンスだ!」と一気に攻め込み、まんまと罠にハマって全滅するなどということは戦国の世ではよくある話。

 逃げる敵を追うということは、実はそれほど危険な行為であり、相手の行動に「罠」の匂いを感じることも、武将の重要な才覚だったのです。

 だからこそ、この「空城の計」は、威力を発揮するのですね。

 この戦略、現代に当てはめると、どうでしょう。あえて、相手に自分の隙や弱みをさらけ出して油断させるとか、もう余裕がないのに平然を装う、あるいは逆に、まだまだ余力があるのに限界のフリをするなどでしょうか。

 そうすることで、相手が手を緩めたり、迷ったり、疑心暗鬼になってくれたりしたら、
形勢不利からでも一発逆転を狙えます。

 有名な『三国志演義』のなかに、天才軍師の諸葛孔明が、城に攻め入ろうとする敵軍を戦わずして追いはらった話があります。

 孔明は、兵たちを隠して、城の門を開け放ち、自ら1人で相手からよく見える建物の上
で、悠然と琴を奏でたのです。

 攻めてきた敵軍は、孔明の姿を見て恐れをなして逃げ帰ったといいます。

(ポイント)まだ奥の手があると思わせて、相手をひるませる。

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