多くの人の胸を打った作文は松竹映画「どろんこ天国」の原作に…作者の10歳少女が2年後に非業の死を遂げた驚きの理由

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 高度成長期に入った昭和30年代のはじめ、1本の作文が注目された。書いたのは当時10歳の少女。貧しい家族のため懸命に、前向きに働く「かあちゃん」の姿を綴ったその作文は多くの人の胸を打ち、ついには映画化される。だが、一家に支払われた「原作料5万円」は、2年後の悲劇を招く要因になってしまった。貧しくも愛にあふれていた一家の団らんは、一体なぜ失われたのか。

(「新潮45」2008年9月号特集「昭和&平成『貧乏』13の怪事件簿」より「『どろんこ天国』の作文で日本中の涙を誘ったある極貧小学生の死」をもとに再構成しました)

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映画「どろんこ天国」の原作に

 都市の郊外に、憧れの団地が出現した昭和30年代のはじめは、まだ下町のあちらこちらに、すすけた長屋街が点在していた。増えだした新興サラリーマン層と、都市の土台を支える労働者層のコントラストが、くっきりしはじめたときの話である。東京の裏長屋に住む小学5年生の少女が、チンドン屋をしていた「かあちゃん」のことを作文に書いた。

〈うちのねいちゃんは、早く、ちんどんや、やめればいいといっている。ねいちゃんは、みんなにいわれるのがやなのだ、だけど、私は、ちっとも、やではない、かあちゃんはどろぼうなんかしていないのだから、ちっとも、はずかしくはないのだと、おもう〉

 あるコンクールで入選したこの作文は、新聞、ラジオで絶賛され、やがては松竹映画「どろんこ天国」の原作となり、日本中に知れわたることになる。

 それから2年後の昭和34年、人々は1本の新聞記事によって、少女一家の意外なその後を知ることになる。

280点あまりの応募作のなかで一等に

 10歳の少女の名は「A子ちゃん」とする。A子ちゃんは板橋区本蓮沼にある裏長屋の一問に、子煩悩の父と母、6歳年上の姉の4人で暮らしていた。母は再婚で、娘2人は彼女の連れ子だった。

 岩手から上京して、当時、ニコヨンと呼ばれた日雇いの力仕事をしてきた父は、数年前に高血圧で倒れてから満足に動けず、一家は生活保護を受けて日々をしのいでいた。

 もっともA子ちゃんの家だけが、特別に貧乏だったわけではなかろう。旧中山道の板橋宿に近い一帯には、終戦近くまで「岩の坂」と呼ばれた貧民窟があったこともあり、ニコヨン衆や芸人、物乞いらが集まる長屋が多かった。彼女が通う小学校の担任だった棚橋健造先生も、

「家庭訪問にいくと八畳に四世帯が同居しているようなところもある」(「週刊朝日」昭和34年3月29日号)

 と、一部生徒の事情を話している。

 この棚橋先生が作文教育にとりわけ熱心だった。彼は、昭和32年の5月、「母の日」にちなみ板橋福祉事務所が主催した「母を讃える作文」コンクールに、A子ちゃんの作文を推薦した。「母」と題したその一作が、280点あまりの応募作のなかから、一等に選ばれるのである。

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