沖縄戦、最後の秘話…「生きて伝えよ」と命じられた元兵士が持ち帰った“玉砕の記録” 戦後に始まった“新たな戦い”とは

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 筆者(七尾和晃)が石井耕一さんの存在を知ったのは、およそ18年前にさかのぼる。東京・靖国神社に隣接する、偕行文庫と呼ばれる場所に集められた証言や手記などをあらためている中で、沖縄戦で生き残った石井さんの存在を知ることになった。【七尾和晃/記録作家】

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 新潟県出身の石井さんは、出征時31歳。終戦の翌1946年、沖縄から日本本土へ自身が所属する中隊の「戦時名簿」、いわゆる人事記録を持ち帰った人物である。

 沖縄本島南部の戦線で、拠点としていた洞窟(ガマ)の中に埋め隠していたものを、人事係であった石井さんは米軍の捕虜となったのち、捕虜収容所の中から回収することを計画し、成功したのだ。そこには、激戦の最中に自身の筆で書き留められた、戦友らが死を迎える瞬間の仔細も綴じられていた。

 石井さんは人事記録と、玉砕した部隊の最期の瞬間を書き留めたメモを、郷里・新潟の自宅に持ち帰り、98歳で亡くなるまで手元で守り続けてきた。

 しかし、それは決して偶然ではなく、命じた者がいたことを石井さんは私に明かす時が訪れる。

「生きて伝えよ」──。人事係だった石井さんは、斬り込みと呼ばれた玉砕の一撃に加わることを許されず、中隊長の言葉によって人事記録と、戦友の命が失われていく「最期の記録」を本土に持ち帰り、遺族らに伝える任務が与えられたのだ。

 結果として、日本軍の司令部が置かれた摩文仁(まぶに)を擁する、破壊し尽くされた南部にあって、ガマに隠しておいた人事記録や、戦友らの最期の様子を書き留めた記録を本土に持ち帰ることに成功した。おそらく、沖縄戦において現場で書かれた唯一とも言える貴重な記録であろう。

遺族に「最期の瞬間」を伝える

 しかし、石井さんはその貴重な記録が手元にあることを、声高に謳うこともメディアに売り込むこともなく、ただひたすらに、自らに課された戦後の任務に心を砕くことになる。

 第二次世界大戦中の沖縄戦史において、石井さんは無名の人物と言ってよい。しかし、生涯その掌中で守り続けた、まさに戦場で書き記された記録が残存していたことは、本人がことさらに意識してはいなくとも、紛れもなく「沖縄戦、最後の秘話」とも言うべきものだろう。

 石井さんは、戦場で記した克明な記録とともに、遺族らに「最期の瞬間」を伝え続けた。終戦を経て、石井さんにとっては、人生をかけた新たな“戦い”が始まることになったのだ。

 当然、焼土と化した戦後の各地で、遺族らの消息を確認する作業は困難をきわめる。しかし、石井さんは還暦を過ぎ、勤めていた役場を退職した晩年もなお、自らに課された任務を忘れることはなかった。 仲間の死を伝えるために生き抜くことを命じられた「戦場の人事係」としての任務を果たし続け、全国へと赴く行脚は、70歳を超えても続いたのだった。

 終戦から実に半世紀を経てなお、人事係として記録した、戦場での最期の姿を遺族らに伝え続けた。石井さん自身を晩年まで支える想いがあった。

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