「要領のいい人はずるい」という安易な思い込みが不幸のもとになる ヒトはいつ「歪み」を抱えるのか

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 良かれと思って口にする言葉が、実は極めて無責任な言葉となることがある――『ケーキの切れない非行少年たち』の著者として知られる臨床心理士の宮口幸治さんは、そう指摘する。相手の状況次第では、勘違いのタネとなりかねないからだ。結果として、それらは「判断の歪(ゆが)み」を生み、人を不幸にしてしまう、と宮口さんは説く。

 前編ではその実例として、「みんなと同じでなくていい」「人によって態度を変えるな」などをご紹介した。後編では、さらに一見ポジティブな言葉に潜む落とし穴、さらには「一見もっともらしい言説」が生む勘違いについて見てみよう。

「失敗を恐れるな」「頑張れるはずだ」といった前向きな声かけがマイナスに働くとはどういうことか。

「真面目な人は頭が固い」「要領がいい人はずるい」といった「俗説」をうのみにするとどういう問題があるか。

 身近な「歪み」の原因となる言葉の数々について、宮口さんが問題点を指摘する。(前後編記事の後編・『歪んだ幸せを求める人たち ケーキの切れない非行少年たち3』をもとに再構成しました)。

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「やられたらやり返せ」

「やられたらやり返せ」という言葉は一時期テレビドラマで流行りました。悪い奴らを退治するという意味で用いられる限りにおいては一見、正義感の強さを表しているようにも感じます。しかし万が一、これを額面通りに子どもが受け取り、子どもがその通りにしてしまうと、とんでもないことになります。「誰かに叩かれたら、叩き返せ」など真剣に子に教える大人がいたらいったいどうなるでしょうか。無責任な言葉かけどころか危険な言葉かけです。身につけてほしい理想は“やられても相手にしない”です。

 かつて殺人事件を起こした少年の保護者と面談したことがありましたが、父親は「昔から、やられたらやり返せと言ってきた」と話していました。そこで少年は自分を虐めてきた先輩をバットで殴り殺したのです。しかも父親は被害者に対して「あいつが悪いんや。被害弁償など絶対にしない」と逆ギレしていました。自分の息子が殺人犯なのに、です。

 テレビ番組でも、嫌なことをされた人が仕返しをしてスッキリした、といった内容が放送されたりしています。仕返しをした直後はスッキリするかもしれませんが、相手の苦しむ姿や困った姿を想像すると後味は悪いものです。更に相手に恨みをかい、また相手が攻撃してくることも十分ありえます。ですから、仕返しなどせず自分が我慢しておけば済んだのに、と思うことも多々あるはずです。

 昔から日本では“仇討ち”が時には英雄的行為のように描かれていますが、結局は相手への憎悪の混じった復讐です。その時は仇をとったと思うかもしれませんが、果たしてその後の人生でずっと気持ちが平穏でいられたのかどうか、疑問に思います。いくら仇でも、人を殺したという罪の意識にさいなまれることもあったのではないかと思います。むしろ、そうであってほしいとも願います。

「自分も頑張ってきたんだから君も頑張れるはずだ」

 これは、拙書『どうしても頑張れない人たち』でも書かせていただきましたが、頑張ってもどうしてもできない子どもたち、人たち、そもそも頑張ろうとしても頑張れない子どもたち、人たちがいます。

 ところが、頑張って成功してきた人たちは「やればできる、できないのは怠けているからだ」と、できない相手に圧力をかけてしまうことがしばしばあります。決して悪気がある訳ではなく、子どもたちに何とかテストでいい点数を取ってほしい、といった愛情の裏返しでそうしてしまうのです。しかし、これは結果的に無責任な声かけで終わってしまうこともあります。

 概して学校の先生方は、やって出来た人たちです。出来ないままだと教師にはなれなかったでしょう。ある意味成功者ですので、やっても出来ない子に対する理解はなかなか進みません。自分基準でそういった子たちを頑張らせようとすると、逆に潰してしまうこともあるのです。

 他にも“楽しみながら学ぼう”といって、学ぶことの楽しさを体験させてそこからやる気を引き出そうといった試みもされたりしますが、そもそも頑張れない子にとっては、学ぶことは苦痛なことだと念頭に置いておいた方がいいでしょう。成功体験が少なく頑張り方が分からないケースもあります。また逆に、頑張っていい点数を取れる子が、みんな勉強を楽しんでいるわけではないことにも注意しましょう。

「一つのことを成し遂げろ」「失敗を恐れるな」

 これも成功者の言葉であると思います。我々自身、思い返してみましても、失敗を恐れず何かを成し遂げた経験など、ほとんどの方がないのではないでしょうか。これを真に受けると大変なことになりそうです。実際は、失敗を恐れながら、複数のことに保険をかけて、物事を少しずつ成し遂げていくことが大半だと思います。

 もちろん失敗を恐れず一つのことを成し遂げられる成功者もいますが、ほんの一握りの成功者の陰には多くの失敗者がいるはずです。一方、我々には成功者の言葉しか届かないので、そのまま自分にも当てはめてしまうと、現実を見ず夢ばかり追いかけてしまって取り返しのつかないことにもなります。自分にはどうするのが一番適しているのかを見極めておくことが大切だと思います。

身近な固定観念の歪み

 ここからは固定観念の歪みの身近な例についてお話しします。私たちはみんな何らかの固定観念をもっています。固定観念の内容によっては歪んだ幸せにつながるものもあります。ただその結果が自分だけで終わるものはまだ仕方ないとしても、他者に押し付けたり、周囲の人たちを歪んだ幸せに巻き込んでしまったりする場合もあります。「判断の歪み」にもつながってしまうそういった例を、いくつか挙げてみます。

金儲けする人は悪い?

 概してお金を儲けていると聞くと、何やらずるいことや悪いことをしているというイメージが付きまといます。特に福祉関係の仕事でお金儲けをしていると聞くと、“初心を忘れ金儲けに走った”などとこき下ろされたりします。

 こういった背景には福祉はお金でなくボランティア精神で臨むべきといった固定観念があるようです。これらは同業者に向けて言われることもあります。自分たちは低賃金でも頑張っているのに、あそこは障害者をだしにして金儲けしている、といった批判がなされたりします。

 しかし、様々な仕事をしているみなさんが、もし無給でもその仕事をやるかと言われたら、大半の人たちはやらないでしょう。ほとんどの人たちはお金がもらえるから仕事をしているはずなのです。給与が上がることが嬉しくない人は少ないでしょう。

 個人的にはお金は神聖なものと考えています。労働の対価でお金をもらうのは当然ですが、そのためには自分の人生の一定の時間を提供する必要があります。労働時間がなければ代わりに好きに使えたはずの自由な時間です。それらを犠牲にする代わりに労働の対価としてお金をもらっているわけです。ですので、お金は自分の命の時間そのものと思います。お祝いのとき、感謝の気持ちを表すとき、謝罪の必要があるとき、お金を包むことは失礼ではありません。ある意味、自分の命の時間を削って渡している訳ですから。

 福祉は低賃金でも働くべきだといった固定観念は、人手不足を招きサービスの低下につながるリスクもありますので、単に固定観念の問題だけでは済まないと思われます。

真面目な人は頭が固い?

 真面目という言葉も、状況によって解釈が難しく、歪みが生じやすいものと感じます。結婚するなら真面目な人という表現がされるように、一見、褒め言葉のように思われる一方で、「真面目な奴」と言われれば頭が固く融通が利かないイメージを持たれることもあります。状況によっては褒められているのではなく、むしろ馬鹿にされている感すらあります。

 これはコツコツと頑張ることを否定しかねない固定観念でもあります。勉強をコツコツ頑張って優秀な成績をとっている子に対して、ときに「勉強だけできてもね」といった心無い声かけがなされることもあります。きっとそういった人たちの中には“勉強ばかりやっている人は自己中”“人を蹴落としていい成績を取っている”といった固定観念があるのでしょう。

 私も会社員をしていた20代の頃、ある飲み会の2次会で連れて行かれたスナックで、先輩から「彼は京都大学卒だよ」とママに紹介され、すかさずそのママから「なるほどね……そうやって人を蹴落としてきたんだね」と言われ、合点がいかなかったことを今でも鮮明に覚えています。1浪しましたが受験勉強だけをして過ごした高校から浪人時代は、むしろ自分との孤独な戦いでした。結果的に何とか志望校に入れただけであって、人を蹴落とすことなどとは無縁でした。

 また同じく会社員時代、ある高卒の上司から飲み会の度に「大卒だというだけで出世するのは不公平だ」と言われ続けたことがあります。学歴で最初から差をつけられてしまうことを不公平に思ったのは分かります。ただ現在、「親ガチャ」などもあり大学に行けない高校生もいるとしても、昔のような身分制度もなく、家柄も問われず、基本、本人の努力次第でさまざまな職業に就ける可能性のある、現在の開かれた社会は、むしろ公平ではないかとそのとき感じました。

 今、コツコツと頑張っている子はしばしば“真面目な奴”と周囲からからかわれたりすることもありますが、そのような子のやる気をそがない配慮が周囲の大人にも必要でしょう。

要領がいい人はずるい?

 誰かを指して「あの人は何かにつけて要領のいい人だ」という言い方をされたら、その人は、いつも楽していて、いいところだけ取っていくずるい人のように思えるかも知れません。

 しかし“要領がいい”ことの定義はどうなっているのかと言いますと、「大辞泉」では“処理のしかたがうまい。手際がいい”という優れている点を伝える意味と、“手を抜いたり、人に取り入ったりするのがうまい”という非難の込められた意味の両方があります。後者の意味では確かに“ずるい人”というニュアンスも読み取れます。

 逆に後者の意味で「自分は要領が悪い人間だ」というと、「自分は手を抜くのが苦手だ。人に取り入ったりするのが苦手だ。お世辞を言うのも苦手だ」といった感じになりそうです。生真面目で誠実な人のようなイメージすらします。

 しかし、果たしてそうなのでしょうか。確かにそういった人の中には「自分は人付き合いが苦手だ」という人もいます。それ自体は個性でもあり決して悪いことではないですが、この「人付き合いが苦手だ」というのもときに曲者です。

 よくある例が、人付き合いが苦手というのが免罪符になってしまって、挨拶しない、お礼を言わない、謝罪をしない、相手に気配りしない、といった不快な行動を他者にとってしまうことです。そういう人とは仲良くしたいとあまり思わないのではないでしょうか。それでますます人が離れていき、その人は“自分は人付き合いが苦手”と思い込んで、“お世辞を使って人に取り入ったり世渡りするのがうまい”人を蔑んだりするのです。

 私は、お世辞を使って人に取り入ったりできることは、その人の才能だと思います。お世辞を言われていい気持ちになるのは事実ですし、見え透いたお世辞や、利益を求めるがための付き合いはすぐに見破られます。相手に取り入るには、相手に関心をもってよく観察し、相手への気配りができねばなりませんし、その人自身にも人としての好感度や誠実さが求められるはずです。ですから、これができる人は逆に魅力のある人なのではないでしょうか。“人に取り入ったりするのがうまい”人は、決してずるいのではなく、誠実で魅力のある人とさえ感じます。“要領がいい人はずるい”というのは、そうできない人の固定観念であり、妬みなのかもしれません。

宮口幸治(みやぐち・こうじ)
立命館大学大学院人間科学研究科教授。医学博士、臨床心理士。京都大学工学部を卒業し建設コンサルタント会社に勤務後、神戸大学医学部を卒業。児童精神科医として精神科病院や医療少年院等に勤務、2016年より現職。一般社団法人日本COG-TR学会代表理事。

デイリー新潮編集部

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