「彼女も戸惑っていたと思う」…山口百恵“育ての親“が明かした、過激曲「青い果実」を歌わせた理由
スタジオではパーマにロングドレス
デビュー前の百恵は発声練習が十分ではなかったせいか、音域が狭く、それもあって曲作りにも制約があった。そのために酒井氏は作詞・千家和也、作曲・都倉俊一という強力コンビを用意する。考え出されたのは、“平板なフォーク調のメロディー”というコンセプト。デビュー曲「としごろ」はそうやって生まれた。
「スタジオで百恵さんに会ったのですが、パーマにロングドレスといった出で立ちで、どう見ても団地妻。老けて見えるのでマネージャーに文句を言ったら、困り顔で『ミニスカートを穿かせられないんだ。百恵、スカートをめくって』と言うではないですか。すると、彼女は恥じらう様子もなくさっとスカートをたくし上げてみせる。左膝の上には500円玉ほどの大きな赤い痣があったのです」(CBSソニーの関係者)
当時のアイドルといえば、今よりも無垢さと健康なイメージが求められていた。本当の姿を見せてはいけない。そのため、彼女がミニスカートを穿くときは、膝に肌色のドーランを塗って人前に出ていたという。
「花の中三トリオ」で出遅れて…
デビュー曲も年齢を意識して、ソフトなものになっていた。だが、この曲は7万枚という平凡なセールスに終わる。先にデビューしていた桜田淳子、森昌子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれた百恵だが、森の「せんせい」は60万枚のヒット、桜田の「天使も夢みる」もオリコン上位にランクインしており、大きく水をあけられていた。
「歌謡界は1年で200人がデビューすると言われ、1年後に残るのは2、3人という厳しい世界。地味で和風の顔立ちをした百恵さんは、『平凡』、『明星』などのアイドル雑誌に載っても、どこかうつむいているような印象だった。人気が出ずに時代劇に転向するんじゃないかと本気で心配したものです」(酒井氏)
酒井氏は大胆な路線転換を決意する。
「作詞作曲は同じ千家・都倉コンビにお願いしたのですが、思い切って過激な曲を作ってもらうことにしたのです。誰にでも性の目覚めがあり、14歳の頃がある。それを素直に歌ってほしかった。色気たっぷりの歌手が歌うと下品になってしまいますが、石鹸のような清潔感のある百恵さんなら大丈夫だと思いました」
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