『キングダム』にも登場する、秦王母の愛人「嫪毐」は、本当はかなりの実力者だった
本当の読み方は「ロウアイ」ではなかった?
嫪毐の毐の字は毒に似た字である。この文字を収めていない辞書も多いが、収めてある辞書の説明は、何とも不可思議である。現代中国語辞典では「人名に用いる。例えば嫪毐」とあり(『中国語辞典』白水社)、嫪毐以外の事例は示されていない。また「人名用漢字、嫪毐、(1)戦国時代秦の人(2)品行の悪い人」(『中国語大辞典』角川書店)というものまである。嫪毐に対する偏見から書かれており、嫪毐あっての毐の字ということになる。すなわち嫪毐の否定的人物像(疑似宦官で秦王始皇帝の母の愛人)だけの文字として説明している。
しかし長沙五一漢簡という後漢時代の簡牘には、毐は姓氏でも名前でも一例ずつ見られ、文字自体に悪い意味は見られない。唐の張守節の『史記正義』では、嫪毐(『大漢和辞典』でもラウアイと読む)には辞書にはない別の古い発音があったことに言及する。現代中国語でもラオアイ(Lào Ǎi)と発音するが、古い発音ではキウカイと読むという。こちらの発音の方が秦代の本来の発音に近い。発音には人物に対する偏見はない。
嫪毐への偏見を取り除くためにも、別の側面から見てみよう。秦の荘襄王の時代、荘襄王2(前248)年、蒙驁(もうごう)将軍は趙を攻撃し、泰原を平定し、趙の楡次(ゆじ=泰原の東)、新城、狼孟(太原の東北)など37城を取った。翌3(前247)年に初めて泰原郡が置かれた。泰原は現在でも山西省の中心、汾水のほとりにある省都であり、大都市である。2200年以上もその大都市の名が残り続けている。その基礎は秦の蒙驁将軍が作ったといえる。
始皇8(前239)年、嫪毐の乱が起こる前年に、嫪毐は長信侯に封ぜられ、山陽の地を与えられ、そこに居住した。山陽は黄河の北岸にあり、南岸の秦の占領郡の三川郡と東郡とに対面する。秦王(始皇帝)の母との関係をもとに権力を掌握した嫪毐は、汾水の流れる占領郡の太原郡もみずからの国とした。泰原郡の設置に功績のあった蒙驁将軍は始皇7(前240)年に世を去り、その翌年のことである。
嫪毐の出自は趙と関係しているという説も
嫪毐の出身は不明であるが、『史記索隠』に引く『漢書』では「嫪毐氏は邯鄲に出ず」とある。この文章は『漢書』にはないが、『史記』南越列伝には南越王第三代の嬰斉(えいせい=趙氏)が「邯鄲の樛氏の女を取り」、子の興(こう)が四代の南越王であるとし、その『史記索隠』に「摎姓は邯鄲に出ず」とあるのと同じものであろう。南越国とは、始皇帝のときに百越との戦争で百越に送られた趙佗(ちょうた)が、秦が滅んだときに南越を国号として独立した国である。
嫪毐の出自が趙と関係があるとすれば、趙国に近い山陽と泰原の占領郡を封邑にした理由もそこにあるかもしれない。呂不韋が封邑として周の旧都の一つの雒陽を選んだことに共通する。秦国の政権の中枢にありながら、封邑の国を自分に縁のある函谷関外の占領郡 に置いたことになる。自分自身が政権から失脚したときの延命のためというよりは、秦の政治を対六国とのかけひきで動かしていくために必要であったのであろう。
泰原郡という趙国の領土を奪って置いた占領郡を、嫪毐は自分の封邑として取り込んだ。嫪毐の乱において嫪毐側に従った舎人のなかに爵位を奪われて蜀に流された者が四千余家もあったということには驚かされる。かれらは秦都咸陽に入っていたわけではなく、嫪毐の封邑の泰原郡に入っていたのであろう。嫪毐の泰原国の舎と泰原郡の舎は別にあったはずである。
嫪毐が処刑された後は、泰原郡は対趙国戦略の前線基地、重要な占領郡として機能していった。嫪毐と呂不韋の遺産である泰原郡と三川郡は、二人の死後、対東方戦略で大きな役割を果たしていくのである。
***
この記事の前編では、同じく『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)より、大王・嬴政最大の政治的ライバルとして描かれる「呂不韋」が残した偉大な功績について解説している。