『キングダム』にも登場する、秦王母の愛人「嫪毐」は、本当はかなりの実力者だった

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 秦王・嬴政(えいせい)の母・帝太后の愛人で、『キングダム』で呂不韋と同じく、大王陣営に弓引く“敵側”として描かれる嫪毐(ろうあい)。意外なことに、史実を読み解くと実は嬴政にかなり近しい存在だったことが分かるという。前編に続き、映画「キングダム」シリーズの中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸の著作『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)より、一部を抜粋して解説する。

(前後編の後編)

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史実にも「車裂にされた」とある

 嫪毐(ろうあい)はもとは呂不韋の舎人で、呂不韋に代わって秦王嬴政の母の帝太后の愛人となった人物である。始皇9(前238)年、嬴政22歳のときに起こった嫪毐の乱は、秦王側と嫪毐側に二分して戦う大きな内戦であった。

 嫪毐は秦王嬴政を支えた人物ではなく、嬴政に敵対する人物としてとらえられるが、事件が起こる前までは秦王朝を支える存在であったことを忘れてはならない。嫪毐の家の奴婢は数千人、仕官を求める舎人は千余人もあったという。

 嫪毐と帝太后の間には二人の子があり、嬴政の義弟となる。嫪毐は嬴政から言えば仮父(かふ=母の後夫)であり、事件の前までは嬴政にとって仲父(ちゅうふ=父の弟を仲父というが、斉の桓公が宰相の管仲を仲父と尊称し、秦王嬴政も呂不韋を仲父と尊称した)の呂不韋とならぶ大きな存在であった。事件直後に斉客の茅焦(ぼうしょう)は、陛下は仮父を車裂(二台の車に罪人の足をしばり、車を左右に引き離してからだを裂く刑)にしたと述べている。

 呂不韋が相邦、嫪毐はおそらく郎中令のような宮殿を管轄し、秦王と太后のもとに自由に往来できる内官として棲み分けはできていたのであろう。後の丞相の李斯と郎中令の趙高に当たる。嫪毐は反乱のときには秦王と太后の御璽(皇帝の印)を矯って兵を出した。身近にあった本物の御璽を持ち出して不正に使用したのであり、御璽の偽造品を作ったわけではない。秦王側の勝利は、その後の成人秦王嬴政の親政が進められる契機となった事件としても重要である。秦王側の正当性を強調し、嫪毐の人格を貶める見方は避けなければならない。

 嫪毐側には衛尉(宮殿警護の中央高官)、内史(畿内管轄の中央高官)、中大夫令(宮殿管理の郎中令の属官)の中央高官が加わり、その管轄下の県卒(内史管轄下の県の兵士)、衛卒(衛尉管轄下の兵士)、官騎(騎兵部隊)、戎翟君公(秦に服属していた西方民族の首長)、舎人(嫪毐個人の食客)などを兵力として動員できたことを見ると、帝太后の後宮に宦官を偽って出入りし、二人の子をもうけただけの間男ではなく、若き秦王嬴政の中央政権を一定程度支えていた人物であったことがわかる。長信侯嫪毐は、君と尊称はされなかったが、実質は秦の封君(ほうくん)といってよい。

嫪毐は嬴政にハメられた?

 しかしながら成人を迎えた秦王嬴政が親政を行っていくには、相邦の呂不韋だけでなく嫪毐からも離れ、かれらを排除しなければならなかった。嫪毐が嬴政を成人の儀を行う予定であった旧都雍城の蘄年宮(きねんきゅう)で襲うという陰謀が密告され、秦王側が先手を打って都咸陽で嫪毐を攻めて激戦となったと伝えられるが、その実、秦王側の仕掛けた事件であったと思う。

 この乱で、嫪毐側の兵士数百人が斬首された。秦人が六国の敵兵ではなく秦の人間を斬首し、戦時と同様、実行者に爵位まで与えたことになる。嫪毐らは逃走し、嫪毐を生け捕りにすれば100万銭、殺せば50万銭という懸賞金まで懸けられた。嫪毐ら20人の高官の首謀者は捕らえられ、梟首(きょうしゅ=市場でのさらし首)と車裂の極刑に処せられた。

 嫪毐の一族にも死刑が及び、太后との間の二人の子も殺され、帝太后は雍城に幽閉された。嬴政には相邦の昌平君、昌文君が就いており、22 歳の嬴政一人の意志で事件が動いたとも思われない。

 翌始皇10(前237)年には呂不韋が事件に連坐して罷免されているが、事件発生前後の嫪毐と呂不韋との関係は見えてこない。呂不韋列伝によれば、呂不韋と帝太后の男女の関係が発覚するのを恐れた呂不韋が、強壮の嫪毐を太后のもとに送りこんだという。それが遠因になったかもしれないが、『史記』の嫪毐像は、あまりにも漢代の偏見に満ちている。

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