映画「キングダム」にも登場 秦王・嬴政の政治的ライバルとして“悪役的”に描かれる「呂不韋」が残した“偉大過ぎる功績”とは
山﨑賢人が主演の「キングダム 大将軍の帰還」の評判がいい。そんなキングダムの世界を語る上で、最も重要なキャラクターの1人が「呂不韋」だ。嬴政(えいせい)率いる大王陣営が、国内の権力を手中におさめるまで、最大の政治的ライバルとして描かれる呂不韋は、史実ではどのように扱われているのか。映画「キングダム」シリーズの中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸の著作『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)より、一部を抜粋して解説する。
(前後編の前編)
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「史記」には嬴政の父親との記述も
戦国時代の韓の陽翟あるいは魏の濮陽の出身の大商人呂不韋が、趙の都・邯鄲で秦の太子安国君(孝文王)の子の子楚と出会ったときから、まだ生まれぬ始皇帝嬴政(えいせい)の歴史が始まったといえる。
歴史は偶然の積み重ねであれば(そもそも必然の歴史などないが)、安国君が昭王の太子となったのも悼太子(とうたいし)が質子(ちし)として魏で偶然亡くなったからであり、質子として邯鄲に出されていた子楚が、安国君の二十余人の子のなかから後継となったのも、なるはずもない偶然であった。
子楚の実母は安国君の夏姫(かき)であるが、呂不韋は安国君の正夫人である華陽夫人に子がいなかったことから、商人としての才覚から千金の財を費やして画策し、子楚を安国君の嫡嗣(ちゃくし=太子が王になったら太子となる)となる約束を取り付けた。
一方、呂不韋のもとですでに身ごもっていた邯鄲の愛姫を子楚が見初めて夫人とした。愛姫は趙の豪家の女(むすめ)であり、名前は残っていない。愛姫が子楚の夫人となってから生まれたのが嬴政であり、竹簡文書の『趙正書』の発見から姓名は趙正に修正できる。
『史記』呂不韋列伝では嬴政は呂不韋の子であり、『史記』秦始皇本紀では荘襄王子楚の子であるとして食い違う。前者は、始皇帝が秦王室の系統からはずれて東方の商人の子であるという、一種の反始皇帝伝説として理解できる。ともかくも呂不韋と子楚と愛姫の邯鄲での偶然の出会いから嬴政、のちの始皇帝が誕生した。
商人として国境を自由に行き来した呂不韋
呂不韋は子楚と邯鄲を脱出し、妻子は遅れて咸陽に入った。呂不韋は昭王の死、安国君(孝文王)の即位と三日後の急死を経て、荘襄王元(前294)年に丞相に就任し、河南雒陽(洛陽)の食邑10万戸を与えられ文信侯と呼ばれた。ちょうど秦が三川郡を置いたときと重なる。
秦の植民地の三川郡は、丞相(相邦)呂不韋の存在と切り離せない。呂不韋の勢力は戦国の四人の封君(ほうくん=魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君)にも匹敵する。全国から人材を集め、食客3000人を集めたという。その人材の受け入れ口が、三川郡の雒陽であった。呂不韋は最期はみずからの雒陽の領地で鴆酒(ちんしゅ)を飲んで自殺した。
『皇覧』によれば、墓は雒陽の北邙山(ほくぼうざん)にあるという。洛陽には、東に成周城と、西に15キロメートル離れた東周王城という二つの拠点がある。秦の三川郡の役所は西の旧都の東周王城に置かれ、呂不韋個人の雒陽の居城は東の新都・成周城にあり、一定の距離が置かれていた。不韋の食邑10万戸とは、前漢末でさえ雒陽の人口は5万戸強であったので、とても大きな封地である。そこを秦の呂不韋は抑えていたことになる。
里耶秦簡にも「丞遷大夫 居雒陽城中能入貲在廷」というものがあり、断簡で前後は不明であるが、「丞(次官)の遷(名)は大夫(下から第五級の庶民の爵位)で雒陽城の中に居住していたときに(罪を犯したが)貲し(贖罪金)を納入して廷(役所)に止まることができた」という内容であろう。秦の時代の洛陽は、『史記』の史料通り雒陽と記し、呂不韋の封邑雒陽も雒陽城という城郭都市であったことが確認できる。
呂不韋は韓・魏・趙の国境を自由に越えた商人としての国際感覚を持ち、それが若き秦王嬴政の相邦を務めていた時代の外交と戦争に活かされていた。商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない。始皇4(前243)年、趙にいる秦の質子を趙から帰国させ、趙の太子を秦から趙に帰している。外交上の一種の断交である。
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