123便に乗り込み帰らぬ人となった「坂本九」 「最後の曲」は10代にも歌い継がれる「名曲」となった――
まだ43歳だった歌手の坂本九さんが8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなってから、今年で39年。
事故の3カ月前にリリースされた「心の瞳」は、テレビで本人が一度も歌うことのないまま、いまなお合唱曲として広く歌い継がれている。この曲は、坂本九さんがレコード会社ファンハウスへの移籍第1弾シングルとして制作された。ファンハウス創業者で「心の瞳」をともに制作した新田和長氏の著作『アーティスト伝説 レコーディングスタジオで出会った天才たち』(新潮社)から、名曲の誕生秘話と坂本九さんの愛すべき素顔を紹介する。
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1980年頃から、僕は九ちゃんのレコード制作を任されるようになっていたが、彼の多様な才能をよく知っているがゆえに、何が彼の才能をいちばん発揮させる音楽なのか、試行錯誤を続けていた。
そんなある晩、柿の木坂の自宅を訪ねると彼は2階の仕事部屋で、ギターを弾きながら、オリジナルの新曲を聴かせてくれた。実は彼も曲作りに励んでいたのだ。九ちゃんがこのときに聴かせてくれたのは「親父」という歌だった。生前は酒の飲み方までいちいち説教するうるさい親父だったが、今になってそれらの言葉を噛み締めて亡き親父を偲ぶ歌だった。
「親父」は、シングルとして1982年に発売された。テーマもメッセージもはっきりした情のある歌だったので一定の評価は得られたものの、これこそシンガーソングライター坂本九のつくったみんなの歌というほどまでには評価されなかった。一体、何が坂本九にふさわしいのか、僕たちは暗中模索を続けたが答えはなかなか出なかった。
1983年、原点回帰しようと思い立った僕たちは永六輔さんを訪ねた。永さんは思わぬ言葉を吐いた。九ちゃんに司会業をすっぱりやめるように迫ったのだ。九ちゃんは、毎年、武道館で開催されるヤマハ音楽振興会主催の世界歌謡祭の司会を続けていた。世界的なヒットを授かった自分の役割でもあり、恩返しと考えていたからだ。テレビでも多くの番組で司会をしていたが、永さんはこう厳しく迫った。
「歌手に徹するなら、司会者のような仕事をしては駄目だ。人を紹介したり褒めたりするのは、歌手のすることではない! 歌手を続けるのなら、坂本九という名前や過去の実績に頼らず、名前も顔も隠して、たとえデパートの紙袋を被(かぶ)ってでも、歌う覚悟があるか!」
永さんは本気で叫んでいたから、ふたりともうつむいて聞くしかなかった。歌手を続けるなら司会など止めて歌うことに専念しろというのは正論だった。歌手坂本九を取り戻してもらいたいという永さんならではの愛情からくる厳しさだったのだろう。そのためには名前も顔も伏せて歌一本で勝負する覚悟があるのか、といった比喩だったに違いない。
しかし、九ちゃんはその言葉を額面通りに受け入れた。数ヶ月後、XQS(エクスキューズ)という名前の覆面歌手になり、目と口に穴を空けた紙袋をすっぽり被って踊りながら歌うプロモーション映像までがテレビから流れた。
僕はここまでしなくてもいいのにと思いながら、機転の利かなかった自分が情けなかった。
「さびしい時は自分よりもっとさびしい人のために働きなさい」
九ちゃんはお母さんのこの教えを胸に笑顔を心がけてきたという。そうやって自分自身を励ましてきたのかもしれない。
「僕がニコニコすると、相手もニコニコ微笑んでくれる。それがいいんです」
そう言って、にっこり笑った。
「悲しい歌を歌うときも笑顔で歌うと、聴いている人が希望を感じてくれます」
「あゆみの箱」の募金活動には積極的に取り組んだ。福祉活動にも本腰をいれて力を尽くした。手話のための歌をつくったり、体の不自由な人たちに語りかけ、微笑みかけた。
1984年、僕は東芝EMIを退社し、新しいレコード会社「ファンハウス」を創業した。しばらくして、坂本九さんが専属契約を終了させファンハウスに移籍してくれた。東芝EMIで育った坂本九さんにとって、どれほど勇気のいる決断だったことだろうか。坂本九とファンハウスは専属アーティスト契約を締結、移籍第1弾シングルの制作準備に入った。
その頃になるともう企画にあれこれ迷うことはなくなっていた。九ちゃんはこれまで通りエンターテイナーに徹すれば良いのだ。九ちゃんは大好きなペリー・コモの「アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー」や「フォー・ザ・グッド・タイムズ」といった曲名をあげて、いつまでも歌える大人のラブソングをつくりたいと言った。いっときの熱い恋愛感情や熱情とは違う、もっと深い人生の愛の歌を歌いたいと語った。作詞を荒木とよひさ、作曲は三木たかし、編曲を川口真に依頼した。
荒木先生は九ちゃんの妻の柏木由紀子さんに宛てたラブレターを代筆する気持ちで「心の瞳」を書き上げてくれた。坂本九の再出発にふさわしい歌ができ上がった。ディレクターは元トワ・エ・モワの芥川澄夫君だ。大先輩の坂本九さんを担当できるほどの制作者に成長していた。
1985年3月、「心の瞳」のオケの録音が終わると仮歌を吹き込み試聴用のカセットテープを抱えて九ちゃんは自宅に飛んで帰った。
「ユッコ! 今度の新曲すごいよ、これは僕たちの歌だよ。ユッコが聴いたら泣いちゃうよ!」
11歳だった長女花子さんは僕にこう尋ねてくれた。
「いつか、パパの歌のピアノ伴奏をしたいので、練習用にピアノ譜のコピーをいただけますか」
「心の瞳」は5月22日に発売された。しかし、テレビで一度も歌われないまま8月12日、坂本九は日本航空123便に乗り込み、帰らぬ人となった。43歳の若さだった。
僕はその晩、柿の木坂の自宅へ駆けつけ曲直瀬道枝さん(マナセプロ2代目社長)と取り巻くマスコミの対応に追われた。翌々日から群馬県藤岡市に設けられた遺体の検視兼安置所に詰めていたが、16日になって九ちゃんがいつも身につけていた笠間稲荷のペンダントが発見された。
9月9日、葬儀は芝増上寺で行われた。曲直瀬道枝社長のもと、日本女子大を卒業したばかりの渡辺美佐さんの長女、渡辺ミキさんが司令塔となった。黒柳徹子さんと永六輔さんの弔辞に続いて、「心の瞳」を歌っている九ちゃんの声が、テープで流れた。お父さんの歌に合わせて、見事なピアノを弾いていたのは、学校の制服姿の花子さんだった。
事故当日8月12日の朝、自宅を出た九ちゃんは、NHKの505スタジオで、FMラジオ番組の公開録音の収録をした。これが九ちゃんの生前最後の収録番組となった。それから約半月後の9月1日、NHKはこの番組を放送した。
「心から坂本九さんのご冥福を祈りながら、この番組をお送りいたします」というアナウンサーの言葉に続いて、いつもの明るいあの声が聞こえてきた。
「こんにちは! 坂本九です」
1時間番組の最後の方で、九ちゃんはピアニスト羽田健太郎さんの伴奏で「心の瞳」を歌った。
その歌は番組を聴いていた千葉県の中学校の音楽の先生、長谷川剛さんの耳にとまり、長谷川さんが同じ千葉県の中学校の先生だった友人の田中安茂さんに教え、田中さんは長谷川さんが編曲した譜面を使い、卒業式の合唱曲にした。噂が広まり、しだいに全国の中学校の合唱曲として、歌われるようになっていった。
中学生には中学生ならではの心の葛藤がある。それを乗り越えていこうとする気持ちは「心の瞳」の歌詞にぴったり合っていたので、中学生たちはこの歌を涙を流しながら歌ったという。この歌は気持ちを柔らかくしてくれますと田中先生は後日語った。
やがて「心の瞳」は中学校の音楽の教材にも載るようになった。するといつの頃からか、柏木由紀子さんのもとに全国の小中学校から、感謝や励ましの手紙が届くようになった。そこで初めて僕たちはこの曲が合唱曲になっていたことを知らされた。
由紀子さんと2人の娘は、九ちゃんが最後に歌った歌を歌い継いでいくために、ママエセフィーユというユニット名で、コンサート活動を開始。品川プリンスホテルのクラブエックス、銀座博品館劇場、銀座ヤマハホールなどで毎年クリスマス時期に定期的に歌い続けた。ステージには九ちゃんのディレクター・チェアが置かれ、九ちゃんの声が流れるなか、三人でハーモニーを奏でた。
2017年、僕は九ちゃんのメロディーに三人のコーラスを重ねたCDを制作することにした。当時の九ちゃんのマルチのマスターテープを工場から取り寄せ、渋谷のBunkamuraスタジオで封印されていた箱を開けた。大きなスピーカーから流れる、エコーもかかっていない、九ちゃんのそのままの声と家族三人は再会した。
三人のコーラスは、控えめで、自然で、最初からずっと入っていたように聞こえた。九ちゃんが大事にしていた家族の声や想いが重なったことで、「心の瞳」は完成されたのだった。
「心の瞳」は、九ちゃんを失った悲しみや苦悩から家族を救い、合唱曲となって、昭和から平成、そして令和へと歌い継がれる曲になった。何よりも嬉しかったのは、坂本九という歌手も知らない10代の若い人たちにも愛される、合唱曲の定番になったことだった。
「九ちゃんが種を蒔き、残した歌は、こんなに大きく育ちましたよ。さすがです」
僕は天国の九ちゃんにそう伝えたい。
あの笑顔がすぐそこに見えるようだ。