「娘を5円で売ることにしたよ」 昭和落語界の双璧・志ん生と文楽、仰天エピソードの真相から見える本当の関係

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「苦しいのはお互いさまだった」

 だが本当の事情は、少し違うようだ。産経新聞社特集部編『新ライバル物語』の「草書と楷書の落語伝説」には、弟子の柳家小満んが聞いた、師匠文楽の言葉が載っている。

「あんときは驚きましたね。志ん生さんが娘を買ってくれっていうんだよ。シャレがきつすぎるんだよ、まったく」

 いずれにせよ、ふたりの強い信頼関係あってこその縁組み話だった。

 文楽、志ん生とも親交のあった演芸評論家の矢野誠一氏に、伺ってみた。矢野氏は、両人からこの話について聞いたことはなかったが、「5円」という額については、覚えがあった。

「文楽さんが、志ん生さんに5円貸していたのは確かでしょうね。『いまでこそあちらは貧乏を売りにしてるけど、あの時代の芸人は売れっ子でもなかなか食えなくて、苦しいのはお互いさまだった。世間は、あちらの貧乏話をおもしろがるが、貸した5円を返してもらえなかったあたしの方だって、それこそたいへんだったんだから』って、冗談めかして文楽さんが話してくれたことがあったんですよ」

 どうやらそんな経緯もあって、養女話に「買う」だの「5円」だのという尾ひれがくっついてきたらしかった。

文楽の家は志ん生の持ち物でいっぱい?

 新宿の寄席「末広亭」の席主・北村銀太郎は、ふたりの関係を間近に知るひとりだ。『聞き書き・寄席末広亭』(冨田均著、平凡社)で、こんな面白い風景を語っている。

「あの2人、仲がよかったんだよ。借金なんかあまり返したことのない志ん生さんが、文楽さんのところに借りにゆくときだけは、借金のカタになんて額なんかをちゃんと置いてくんだもの、ほかとは大違いだよ。文楽さんも志ん生さんがくれば、『ああ、いいよ』って貸してやってたから、しまいにゃ文楽さんちは志ん生さんの持ち物でいっぱいだよ」

 昭和14年に、5代目古今亭志ん生を襲名した彼が、本格的に売れ出したのは、慰問興行に出かけた満州から、戦後帰国してからだった。

 以降、志ん生と文楽の二枚看板が、落語人気を守り立てていくことになる。志ん生はのち、落語協会会長に就任、昭和39年には紫綬褒章を受ける。ただ、いずれも文楽の後塵を拝す格好になった。しかし、肝心の人気ではすでに、文楽を凌ぐ勢いだった。

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