急患で「日航ジャンボ機」搭乗をキャンセルした医師が語った「生かされた命を役立てたい」
“何とかなる”
しかし時間がたつにつれ、「自分がキャンセルしたことで、代わりに誰かが乗って犠牲になっている。そう考えると、いたたまれない気持ちになった」という。
そんな思いがあったからだろう、事故から19年たった平成16年、自衛隊が、人道復興支援活動のためイラクに派遣されたとき、防衛庁所属だった脇山は、医官として現地に赴いている。
「危険を伴う任務ですから、断ることもできました。でも、生かされた命を役立てることができればと、お受けすることにしました」
宿営地はサマーワ。役職は、第一次イラク復興支援群衛生隊長。主な任務は、周辺病院に対して衛生指導することだった。車で移動中、現地の警官が地雷を見つけたり、地雷で大破した車を目撃したりした。
「死ぬかもしれない、という恐怖は常にありました。でも123便のときも難を逃れた。今回も“何とかなる”という気持ちがどこかにありました」
平成19年に防衛省を辞め、ある医療施設を引き継ぎ、「ひもんや外科内科クリニック」を開業したときも、内心かなり不安だった。けれど、このときも“何とかなる”という気持ちに支えられた。そしていまは地域医療に励む日々である──。
このように間一髪で助かった当事者たちは、巡り合わせとしかいえないものにかろうじて命を救われていた。キャンセル席が回ってこない、急用が入った……。吉凶は隣り合わせということが、これほど如実に表われた例はないだろう。もしかしたら自分も死んでいたかもしれない。それもあってか、問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にする人が多かった。
日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それを心のどこかに感じながら、助かった人たちはそれぞれの人生を今も生きている。
(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)
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