シャープ元副社長は“突然の来客”逸見政孝は…… 墜落「日航ジャンボ機」を直前にキャンセルした人々の証言

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イッツミーと123便

 フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝は、その年、不惑を迎えていた。彼はあの日、妻と息子、娘の4人で、実家のある大阪へ飛行機で帰省するつもりだった。逸見が希望したのは、なぜか123便だった。

 だがその便を予約しようとすると、満席を告げられた。おそらくその後だろう、妻・晴恵が近所に住む実母に帰省の件を話すと、こんな懸念を口にした。

「4人で飛行機に乗って、もし事故でも起きたらどうするんだい」

 晴恵にとってその一言は重みがあったようだ。逸見の長男でタレントの太郎(当時小学6年生)によると、「祖母は霊感があるというか、不思議な存在だった」という。

 祖母は、世田谷区奥沢でよろず屋を営んでいた。店は十字路のすぐ脇にあったのだが、そこには太郎が知っているだけで3回、車が突っ込んでいる。

「そのたびに店はメチャクチャになるんです。でも、いつもは店番をしている祖母がそのときに限って、近所で世間話をしていて助かっている。そういう祖母の言葉だから、母も新幹線にしようと考えたのでしょう」

“123”

 父親は怖い人だったと太郎は言う。

「テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」

 事実、晴恵はこう説得している。

「4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから」

 それが功を奏し、一家は新幹線で帰省した。

 日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた。

「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)

 逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。

 太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。

「父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」

 今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない。

(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)

 ***

(3)では、直前に搭乗をキャンセルした医師が、その後の人生を語る。

西所正道(にしどころ・まさみち)
昭和36年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

デイリー新潮編集部

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