シャープ元副社長は“突然の来客”逸見政孝は…… 墜落「日航ジャンボ機」を直前にキャンセルした人々の証言

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「日航機」御巣鷹山墜落 死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生(2)

 墜落した日航ジャンボ機への搭乗を回避した人々の中には、著名人もいた。シャープ元副社長やアナウンサーの故・逸見政孝の遺族が語る、1985年、夏の記憶。
【(1)~(3)の(2)】(「週刊新潮」2015年8月25日号別冊記事の再掲載です。文中の年齢等は掲載当時のものです)

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 急用でやむなく123便をキャンセルした結果、難を逃れた人もいる。

 シャープ元副社長の佐々木正もその1人である。今年100歳を迎えた彼が、当時の記憶をたぐり寄せる。

 昭和60年、佐々木は副社長兼東京支社長の職にあった。12日は自宅のある大阪に帰るため当便を予約していた。

 ところが前日、佐々木に「明日、会えないか」と連絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長である。

「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しようとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変更してもらったんです」

危機を2度も回避

 日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった。

 ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように、伊丹空港まで迎えに来ていたのである。そこにもたらされたのが事故の一報。

「家内は、かなり遅くまで待っていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめたらしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていることを誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」

 淨子夫人は空港で待つ間、“あの日”を思い出していたかもしれない。実は佐々木は以前にも、航空機事故を奇跡的に逃れた経験を持っているからだ。

 それは昭和49年、佐々木がシャープの専務時代にさかのぼる。マレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日のことだった。空港に行き、次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわした。

「私の乗る便は途中クアラルンプールに寄る。早く着くから一緒に行かないか」

 と誘われた。心は動いたが、早く到着しても誰も迎えに来ていないと思い、佐々木は断った。その後、農林相を乗せた飛行機は墜落し、彼は命を落とした。

「生かされた命ですから、人の役に立つ製品をつくらなければと思って、これまでやってきました」

 電卓、真空管、半導体、液晶、太陽電池と、シャープ躍進の鍵を握る技術に、佐々木は関わってきた。

 そしていまは老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」技術を勉強中。技術確立のために、「自分を実験台として使ってほしい」とまで熱く語る。

「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています」

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