釣り具を修理していたら遅れて… 日航ジャンボ機墜落 搭乗をキャンセル、“死神から逃れた”5人が「その後の人生」を語った
「ついてないなあ」
その大西の2人後ろ、空席待ち整理番号7番を持っていたと思われるのが、神田敏晶(53)である。ITジャーナリストの彼は、事故当時はワイン・マーケティング会社の社員だった。
「社会人になって初めてのボーナスをもらったので、少し奮発して飛行機で帰省しようと思ったんです」
当時の新幹線は東京―新大阪間が1万2100円(自由席)なのに対し、飛行機は羽田―伊丹間1万5600円と3500円割高だった。
しかし思い立ったはいいが、チケットさえ取っておらず、空港に着いた当日16時前後は、JAL17時発、ANA18時発、JAL18時発はすべて満席だった。
学生時代はバックパックで世界中を旅していたので、3便もキャンセルを待てば乗れると高をくくっていた。しかし全滅。
「ついてないなあと思いましたね。計画性のない自分を呪うというか」
下調べしていなかったからか、18時発が最終便だと勘違いしていた。それで東京駅へとって返し、新幹線で帰郷した。当時は新幹線車内に文字ニュースが流れるサービスはない。日航機事故を知ったのは、友人と夜通し飲んだ翌日昼、二日酔いの状態でテレビを見たときだった。
「ショックで、ずっとテレビを見ていました。母が“よかったなあ”と言っていたのを覚えています」
不思議なことに神田は、その後何度か大きな災害や事件に巻き込まれたりしながらも、事なきを得てきた。
平成6年(1994)の米ロサンゼルスで起きたノースリッジ地震のときは、フリーウェイが落ちるほんの30分前にそこを走行していた。その翌年の阪神淡路大震災のときは神戸市におり、自宅は半壊したが命からがら逃げ出した。
さらに平成13年、米国同時多発テロ事件が起きた日には、取材場所として、ワールド・トレードセンターを打診されていた。
「考えてみたら、こうした事故で命を落とされた約1万人の犠牲者の代わりに生かされているんだなと。その人たちの分まで生きなければ……。そう思ってこれまで生きてきたのです」
(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)
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(2)では、搭乗を回避していた2人の著名人の体験を紹介する。