夏の甲子園で“のびのび野球” 初出場で大旋風を巻き起こした「公立高列伝」

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ファミコンソフトでもオマージュされた埼玉の「浦和市立」

 ノーシードから埼玉県大会を勝ち抜き、甲子園でも“さわやか旋風”を起こしたのが、1988年の浦和市立(現・市立浦和)である。

 春はブロック予選で敗退し、ノーシードで夏の県大会に臨んだ浦和市立は、初戦でシード校を下して勢いに乗ると、大本命・大宮東など有力校が相次いで敗れるなか、決勝でも市立川口に7対1と快勝し、夢にも思わなかった甲子園初出場を決めた。まさに無欲の勝利だった。

 だが、話はそれだけでは終わらなかった。チーム打率は甲子園出場49校中最低の.252ながら、「“低打率魂”を見せてこい」という中村三四監督のユニークな檄に応え、1回戦の佐賀商戦では、徹底した単打主義で15安打5得点。エース・星野豊も丁寧に低めを突いて2失点完投と、投打がガッチリかみ合い、甲子園初勝利を挙げた。

 2回戦では、仁志敏久の常総学院に6対2と快勝。勝利のたびに「信じられないです」(星野)と驚きながらも、1戦ごとに輝きを増していったチームは、3回戦では真中満の宇都宮学園、準々決勝では宇部商をいずれも延長戦の末下し、4強入りの快挙を成し遂げた。

 準決勝では、広島商の徹底したバント戦法の前に2対5で敗れ、ついに力尽きたが、中村監督は「ここまで来られて最高の満足。監督を連れてきた選手にありがとうと言いたい」と最大の賛辞を贈っている。

 翌89年に発売されたファミコンソフト「甲子園」では、同校をモデルにした「わうら市立」の各選手の“根性値”が高く設定され、反則的な強さだったことを覚えているファンもいるはずだ。

「ハンカチ王子」との名対決

 長年の悲願だった甲子園を実現したばかりでなく、“聖地”でも快進撃を見せたのが、2006年の鹿児島県立鹿児島工である。

 川崎宗則の母校で知られる同校も、鹿児島実、樟南など強豪校の厚い壁の前に、夏はこれまで県大会4強が最高成績だった。

 だが、“本命不在”の同年は、有力校が次々に姿を消すなか、榎下陽大(元日本ハム)、鮫島哲新のバッテリーを中心に攻守に安定した同校が、準々決勝からの3試合をいずれも1点差で制し、鹿児島県の県立高校では53年ぶりとなる甲子園出場を決めた。

 甲子園でも“鹿工旋風”が吹き荒れる。初戦で高知商に3対2で逆転勝ちすると、3回戦では先発全員17安打で香川西に9対3と快勝。さらに準々決勝の福知山成美戦では、2対2の延長10回に4番・鮫島がバックスクリーンに決勝ソロを放ち、あれよあれよという間に4強進出。「この子たちのどこにこんな力があったのか。4強だなんて信じられない」と中迫俊明監督を驚嘆させた。

 “快進撃の象徴”とも言うべき存在が、代打の切り札・今吉晃一だった。県大会から通算9打数7安打と大当たり。ここぞという場面で試合の流れを変える快打を放ち、打席に入って「シャー!」と吠える姿で一躍人気者になった。

 そして、準決勝の早稲田実戦でも、4点ビハインドの6回2死二塁で、代打・今吉が告げられる。マウンドの斎藤佑樹(元日本ハム)は「今吉君に打たれると、一気に流れが動く」と警戒し、今吉も「四球だと流れは変わらない」とあくまで安打狙いでカウント3-0から打ちに行く。

 だが、フルカウントから高め145キロを空振りし、無念の三振。人気者同士の対決は、“ハンカチ王子”に軍配が上がったが、今吉は「今まで生きてきた中で、一番楽しい打席でした」と敗れて悔いなしだった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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