もしも残っていたならば…戦災で焼けた「7棟の天守」を振り返る 79年前の無差別攻撃を忘れないために

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大都市の中心にある大規模な城ほど攻撃された

 ところで、現存する12棟の天守は小ぶりのものが多い。5重天守は姫路城と松本城の2棟のみで、あとは松江城と高知城が4重であるほかは、3重が6棟、2重が2棟である。一方、戦災で失われた7棟は、名古屋城、岡山城、広島城、福山城の4棟が5重で、大垣城が4重、和歌山城と水戸城が3重だった。これは大都市ほど、米軍の焼夷弾攻撃の標的になった結果である。

 現存する12天守で県庁所在地に存在するのは、松江城、松山城、高知城だけだが、戦災で失われた7棟は、水戸城、名古屋城、和歌山城、岡山城、広島城の5つが県庁所在地にあった。しかも、いずれも江戸時代には大藩の拠点で、大規模な城と城下町に由来する中核都市だったばかりに、米軍の攻撃対象に選ばれてしまった。また、少なくとも名古屋城、岡山城、広島城、福山城の各天守は、いま残っていれば、まちがいなく国宝に指定されていただろう。

 その後、失われた7棟の天守のうち、水戸城の三階櫓をのぞく6棟は、戦後20年あまりのうちに、それぞれ鉄筋コンクリート造で外観復元された。木造による復元が避けられたのは、主として火に弱いという理由からで、空襲などの記憶が生々しい時期だっただけに、二度と焼けることなく、永久に立ち続けてほしいという願いが込められていた。当時、鉄筋コンクリート建築は、耐久性に関して半永久的だと考えられていたのである。

 ところが、現実には鉄筋コンクリート建築も50数年から60年以上を経て老朽化し、名古屋城をはじめ木造による再々建が検討されているものもある。ただし、実現するためには課題も多いが、この記事はそこには深入りしない。いずれにせよ、オリジナルの木造建築が残っていれば、その貴重な歴史遺産を維持していけばよかった。木造再建をめぐってもめる必要も、無味乾燥なコンクリート建築に残念な思いをいだく必要もなかった。

 この時期、天守へのそんな思いをきっかけに、79年前の戦災の非人道性に思いをいたしたいものである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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