もしも残っていたならば…戦災で焼けた「7棟の天守」を振り返る 79年前の無差別攻撃を忘れないために
御三家の天守も大坂城譲りの広島城も
7月9日に和歌山市を襲った大空襲では、紀州徳川家の居城だった和歌山城の天守が焼失した。3重3階の大天守と小天守が連結し、さらに長屋式の多門櫓を介して二つの2重櫓が結ばれた建造物群が残されていたが、すべて失われた。江戸末期の嘉永3年(1850)に再建されながら、江戸初期の様式を色濃くとどめる気品ある建築だった。
比較的あたらしい和歌山城に対し、7月29日に焼失した大垣城(岐阜県大垣市)の4重4階の天守には、長い歴史があった。 元和6年(1620)に大きく改修されたという記録はあるが、創建は関ヶ原合戦以前にさかのぼる可能性が高かった。関ヶ原での決戦前に、西軍の石田三成らが大垣城を拠点にしていたことはよく知られるが、そのときに存在していた可能性がある天守だった。
軍国日本の姿勢に原因があったにせよ、人命とともにかけがえのない文化遺産を無差別に攻撃した米軍の行為が正当化されていいはずがない。この時期になると毎年、怒りが湧き上がる。同時に、日本がもう少し早く降伏していれば、と悔しさも募る。というのも、8月に入ってからも終戦までのわずか半月で、3棟の天守が失われてしまったのである。
8月2日に茨城県水戸市を襲った空襲で、水戸徳川家の居城である水戸城のシンボルだった3重5階の三階櫓が炎上した。この建造物は呼び名こそ「櫓」だが、事実上の天守だった。
続いて6日午前8時15分には、原子爆弾による爆風を浴びて、広島城(広島市中区)の天守が倒壊した。毛利元就が秀吉の大坂城か聚楽第の天守を模したと考えられる5重5階の天守は、建築年代が岡山城よりさらにさかのぼる可能性がある、きわめて貴重な歴史的建造物だった。それが一瞬にして、うずたかい残骸の山になってしまった。
火には包まれなかったので、木材さえ保存されれば、旧材をもちいて復元することは可能だったかもしれない。しかし、原爆投下後の状況では木材の管理など望むべくもなく、バラックを建てるための建材や薪として使うために持ち去られ、すぐに失われてしまったという。
これでもまだ終わらず、8日夜遅くには、広島県福山市内が大量の焼夷弾を落とされて火の海になり、市街の8割が焼失。福山城天守も焼け落ちた。元和8年(1622)に建てられた、高さ26メートル余りの5重5階の天守は、「天守の完成形」といわれる合理的な構造が特徴だった。防御が手薄な北面は、大砲などによる攻撃に備えて壁面に鉄板が張られ、その点でも無二の存在だった。
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