もしも残っていたならば…戦災で焼けた「7棟の天守」を振り返る 79年前の無差別攻撃を忘れないために
日本の市街を焼き払うために開発された焼夷弾
空前の城ブームがコロナ禍をはさんで再燃している。ただ、城の象徴とされる天守は12棟しか現存していない。79年前の終戦直前、すなわち昭和20年(1945)5月までは20棟が残っていたのだが、終戦までのわずか3カ月で7棟が失われたのである(その後、北海道松前町の松前城天守が昭和24年、失火によって消失した)。
【写真】残っていれば国宝だったかも…焼け落ちる前の姿と、復元された現在の姿
日本の大都市の多くは江戸時代の城下町に由来し、都道府県庁所在地にかぎれば、7割以上はかつて城下町だった。したがって、大都市が空襲に遭った以上、都市の真ん中にある城は当然、大きな被害を受けることになった。米軍機は市街地をねらって、焼夷弾攻撃を執拗に繰り返したが、この爆弾はじつにたちが悪かった。
燃焼力が高いゼリー状のガソリンを詰め込み、それをまき散らして一面を焼き尽くす焼夷弾は、そもそも日本の木造家屋を効率よく焼き払うためにアメリカで開発された、きわめて非人道的な兵器だった。米軍はそれを、人口密度が高く木造家屋が密集している市街を選んで落下させたからたまらない。落とされた焼夷弾から飛び出した油脂は、90メートルも飛んだといわれ、周囲はまたたく間に火の海に覆われた。そして城郭へと燃え広がり、残されていた天守その他の建造物は、火焔の波に飲み込まれていった。
太平洋戦争に関して、日本の責任が大きいことは言をまたないとしても、民間人から文化財までが、こうして無差別に攻撃される必要があったとは、到底思えない。そのことをあらためて考えるためにも、79年前に失われた城郭建築について、天守を中心に振り返っておくことには意味がある。
国宝24棟のうち20棟が焼失した名古屋城
中学生のとき、名古屋城(名古屋市中区)の天守が猛火につつまれている写真を見て、衝撃を受けたのが忘れられない。その写真は戦後に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守の内部に展示されていた。
尾張徳川家の居城だった名古屋城の5重5階の天守は、徳川家康の命によって建てられた。木造の本体の高さが36.1メートルもあり、3代将軍徳川家光が建てた江戸城と大坂城の天守に次ぐ、史上3番目に高い天守だった。また、延べ床面積はこれら二つを上回り、史上最大だった。名古屋城の築城工事は慶長15年(1610)にはじまったが、そのときは大坂城に豊臣秀吉の遺児、秀頼が健在だった。このため、家康は秀吉が建てた大坂城よりはるかに大きな天守を名古屋城にそびえさせ、諸大名に徳川家の力を知らしめると同時に、豊臣家を牽制したのである。
だが、それ以来、330年余り建ち続けていたこの天守は、昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で、B29爆撃機による焼夷弾攻撃を受け、炎上してしまった。このとき天守には、空襲に備えて金の鯱を避難させるための足場が組んであった。運悪く、焼夷弾がその足場に引っかかり、そこから火が天守全体に燃え広がったという皮肉な話が伝わる。
このとき天守のほかにも、二条城二の丸御殿とならんで桃山時代の武家風書院造を代表していた本丸御殿をはじめ、当時の国宝に指定されていた建造物24棟のうち、20棟が焼失した。これらの歴史的建造物が現存していたら、名古屋城はまちがいなく世界遺産に登録されていただろう。
現存する12の天守に、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前に建てられたと断定できるものはない。近年、犬山城(愛知県犬山市)の天守に使用されている木材の伐採年を年輪年代法で測定し、天正13~16年(1585~88)という結果が出た。このため、関ヶ原合戦をさかのぼる可能性があるが、確定はしていない。一方、5重6階の岡山城天守は関ヶ原合戦以前に、豊臣政権の五大老の一人だった宇喜多秀家が建てたことが確実だった。その姿も、400年以上前に焼失した織田信長の安土城や秀吉の大坂城の面影が色濃い、きわめて貴重な歴史遺産だった。それが一瞬にして焼失したのである。
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