甲子園で延長25回を投げた伝説の投手「吉田正男」 偉業のウラにあった“人生最大の衝撃”(小林信也)

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「なあにまだ続く」

 大会本部が25回表に「たとえ点が入らなくても25回で打ち切り」と決め、両校に通達したその25回裏に決着が着いた。

 四球とバント安打、野選で無死満塁。一番大野木浜市の二塁ゴロを二塁手が本塁へ高投、その間にホームにヘッドスライディングした三塁走者前田利春が生還した。時計の針は夕方6時5分を指していた。試合時間は史上最長の4時間55分。

 翌8月20日の朝日新聞は《延長実に廿五回 中京血涙の凱歌》《明石惜くも敗る 球界空前の記録》《五時間の大試合》といった見出しとともにこう報じた。

〈遂に二十五回裏中京攻撃の無死満塁のチヤンス来るや流石にスタンドはうなり始めたがそれはむしろ悲壮な選手達の苦闘が救はれるのを喜ぶ安堵のうめきではなかつたか〉

〈中京のトツプ打者大野木は万雷の如きかん声のうちにボツクスに立つた、そして打つた、打つた、この一打によつて歴史的大試合は遂に終つたのだ、(中略)十万人はその一瞬全く狂つた、打つた中京の選手も敗れた明石の選手も暫しばう然として涙も無かつた〉

 試合後、吉田は語った。

「相手もよくやった。僕もわれながらよくやったと思います。(中略)傷は何ともないようです。汗がしみてぴりぴり痛むくらいです。昨日、一昨日と連投しましたが、その割によく眠れましたからこれだけ続きました。25回連投は平常練習時の平均投球数の5割増だから、なあにまだ続くとは思うんですがね。明日は又明日ですよ。今夜ぐっすり寝てみたら何とかなりましょう」

 吉田は決勝の平安中(京都)戦でも完投。2安打1失点に抑え、3連覇の立役者となった。

 31年春の選抜から33年夏の大会まで6季連続で甲子園に出た吉田は、史上最多の23勝3敗の記録を残した。33年夏には主将として開会式の宣誓も行った。

 吉田は明治大でも主将を務め、卒業後は社会人野球の藤倉電線で活躍。プロ野球への思いもあったが、結婚相手と「職業野球には入らない」と約束していたことからプロへの道は断念したという。引退後は中日スポーツ新聞評論家としてアマ野球の取材を続けた。

8人が戦死

 球史にさんぜんと輝く投手・吉田の偉業。だが当の吉田にとって人生最大の衝撃は甲子園ではなかった……。

 延長25回の準決勝を戦った選手のうち、楠本や中田ら8人が後に戦死している。

 吉田の長男・正克を取材した朝日新聞(2018年8月7日付)がこう報じている。

〈6年間もの兵役中に戦死公報が自宅へ3回届いたが、全部誤報だった。(中略)自分の生後2週間で戦地へ行った父のことを、正克さんは周囲から「甲子園の英雄」と聞かされて育つ。だが6歳の時、復員した父はマラリアに冒され、ボロボロにやつれていた。正克さんは心中で膨らませていた英雄像とはかけ離れた姿に絶句したという〉

 そして、正克は父・正男から生前、感じ取った痛切な心情を語っている。

〈「生涯、多くのライバルの命を奪った戦争を憎み続けた」〉

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2024年8月8日号掲載

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