甲子園で延長25回を投げた伝説の投手「吉田正男」 偉業のウラにあった“人生最大の衝撃”(小林信也)

  • ブックマーク

 戦前の1931(昭和6)年、夏の甲子園優勝は初出場の中京商(愛知)だった。決勝で嘉義農林(台湾)を6安打完封した中京商のエース吉田正男にとってこれは中等学校野球生活の序曲に過ぎなかった。

 翌32年夏、連続出場した中京商はまた決勝に進んだ。相手は同年春優勝の松山商(愛媛)。延長11回、4対3でサヨナラ勝ちし2連覇。吉田は一人で投げ切り、6安打3失点。前年に続き優勝投手となった。だが、悔しさもあった。9回表、3対0とリードをもらいながら、内野エラーをきっかけに痛打を浴び、3点を献上し延長に入った。せめて2点に抑えたら9回で終わっていた。それでも立ち直り、連覇に貢献した。

 現在までその後90年以上続く「夏の甲子園」の歴史の中で、ここまでの実績だけでも吉田は間違いなく一、二を争う伝説の投手だろう。ところが33年、さらなる伝説を打ち立てた。

 3年連続出場を果たした吉田は1回戦、朝鮮代表・善隣商を相手にノーヒットノーランを記録。絶好調を印象付けた。が、2回戦の浪華商(大阪)戦で送球を顔に受け、左まぶたを3針縫うケガを負った。それでも続投し、準々決勝でも藤村富美男擁する強豪大正中(広島)を破った。

 準決勝の相手は春の選抜で苦杯を喫した明石中(兵庫)。明石には評判の剛球投手・楠本保がいる。春は楠本に3安打で零封された。ところが、楠本を打ち崩すことが打倒明石の大前提と燃える中京商ナインは、先発メンバーを見て肩透かしを食った。楠本の名は右翼の位置にあった。楠本はこの大会、体調が万全でなかった。代わってマウンドに立ったのは、好調の中田武雄。

 中京商の先発はもちろん「不死身の吉田」。両投手譲らず、延長24回までスコアボードに0が並んだ。いや正確に言えば、スコアボードのスペースが足りず、得点板を継ぎ足して表示した。

 楠本は延長に入ると中田を救援しようと投球練習を始めた。ところが監督に止められた。監督は言った。

「相手投手一人に二人がかりとは何事か」

次ページ:「なあにまだ続く」

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。