「武者小路実篤」が私財をつぎ込んだ“理想郷”が「限界集落」に…残った村民は3人だけで「現状維持が精いっぱい」

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存続の方策を皆で考えていかなければ

 昭和の一時期には、茶畑のある場所の近くで都電の旧車両を利用した幼稚園も運営されており、近隣地域の子供も受け入れていた。だが、村内の子供が減ったことに伴い40年前に廃園になっている。

 吉原さんと面会した村内の「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が開館したのは、まだ子供の歓声が聞こえていた1980年に遡る。実篤が手掛けた絵や書物などが多数、展示されているが、今では訪れる人は1日1~2人程度だという。一般財団法人「新しき村」の理事の一人は、次のように現状を嘆いた。

「公益法人化の話も、村内住民を増やす計画も、円滑に進んでいません。村内会員はおろか、村外会員の考え方もそれぞれ違うので、なかなかまとまりません。一方で、強いリーダーを持たず、一人一人が独立しながら力を合わせて生活するという村の性格上、当然ながら上意下達で決めるわけにもいきません。独立性が強い共同体ですので、行政との連携もなかなか難しい面があります。現状維持が精いっぱいというのが正直なところなのです」

 さらに理事は、少子高齢化で住民が極端に減り、村落の存続が危ぶまれる「限界集落」のような状況だと訴えた。

「全国の過疎地同様、やはり高齢化が最大の障害になっています。『年をとって農業の仕事ができなくなると、ほかの村民に迷惑がかかる』と言って離村していくケースが多いのです。ただ、法人としても、村の会員としても、たとえ村民がいなくなっても村自体は末永く残す方針です。今後も存続の方策を皆で考えていかなければなりません」

100年以上続いた実験的なコミュニティ

 私は18年前の取材を終えて雑誌の記事にした後、村の住民に求められて機関紙「新しき村」に雑文を寄せたことがある。内容はうろ覚えだったのだが、「美術館」の蔵書にバックナンバーがあったので目を通してみると、最後の方に「『新しき村』は、存在していること自体に意味がある」といった記述があった。

 確かにあの時、個々人が自立しつつ、他者と協調もしながら生活を営むという試みには共感する部分もあり、懐かしさを感じたものだった。今もそれは変わらない。都市生活者から見れば異郷ではあるにせよ、宗教色やイデオロギー色があるわけでもなく、閉鎖的で浮世離れした共同体というわけでもない。往時には村周辺の人々が行き来し、村内で開かれる祭りに参加したり、村内の農作業を手伝ったりする姿もあったのだ。

 だが、如何せん村内在住者が3人では、将来の展望がなかなか開けないのではないか。100年以上続いた実験的なコミュニティが、長きにわたって人が住む地区として存続できるのか、実篤の功績を伝える記念公園のような形になっていくのか、または役割を終えて廃村になる運命なのか、大きな岐路に立たされているようだった。

 美術館の入り口近くには「龍となれ 雲自づと来たる」と書かれた石碑が立っている。龍のように志を高く持てば、自然と理解者や賛同者が集まってくるという意味だ。画家でもあった実篤は画賛として、色紙に好んでこの言葉を添えていたという。

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 2006年当時、村の住人は20数名。宮崎県での設立当時は、武者小路実篤とその妻・房子らをめぐる色恋模様も展開していたという。第1回【“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”】では、理想郷の中に存在した「複雑な人間関係」について書かれた、2006年の記事を再録している。

菊地正憲(きくちまさのり)
ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。

デイリー新潮編集部

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