「武者小路実篤」が私財をつぎ込んだ“理想郷”が「限界集落」に…残った村民は3人だけで「現状維持が精いっぱい」

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第1回【“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”】からの続き

「仲よき事は美しき哉」の言葉などで広く知られる武者小路実篤。彼が残した「村」をご存じだろうか。「万人が調和して暮らす理想郷」を目指した「新しき村」である。1918年に宮崎県児湯郡で開村したものの、1939年にダム建設の影響で大部分が埼玉県入間郡に移転。戦争を経て現在まで続くその過程には紆余曲折があった。

 ジャーナリストの菊地正憲氏は2006年、村民が20数名に減少していた村を取材。実篤存命時の一風変わった人間関係等を解き明かした。それから18年、村はどう変わったのか。今年7月、菊地氏は再び村を訪れた――。

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時間は止まっていなかった

「どこまでも静謐」で「時間が止まっている」ような感覚。最初に訪れた際にはそんな感想を抱き、実際に記事にもそう書いたものだった。今回も静けさはそのままだったが、時間の方は止まってはいなかった。やや寂しげな時の移ろいを痛感せざるを得なかったのだ。

 今年7月下旬、埼玉県毛呂山町葛貫の「新しき村」に、2006年の取材以来18年ぶりに訪れた。JR八高線毛呂駅から県道沿いに20分ほど歩く。踏切を渡って雑木林を抜けると、「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」と白字で書かれた木の標柱が見えてきた。

 猛暑日のセミの声は耳をつんざくほどだが、それ以外の音は聞こえてこない。周囲には深緑の茶畑と草地が広がっている。その合間にはいくつかの建物が見える。俳句にもなりそうな田園風景はほとんど変わっていない。

「お暑いところ大変でしたね」

 声をかけてくれたのは、この村に1977年から住んでいるという吉原民雄さん(75)だ。鹿児島県に生まれ、20代のころ、大阪や東京、北海道で、飲食店の店員や不動産業といったさまざまな職を経た後、29歳のときに村に入った。

「大学を中退し、仕事をしてもなかなかうまくいかずに落ち込んでいました。そんなときに、たまたま新聞の記事で先生の村のことを知り、暮らし方が自分に合っていると思いました。心にゆとりを持てるかな、と思って。先生の考え方に感銘を受けたのです。すぐに都内のアパートを引き払って、入村を決めました。来てみたら居心地がとてもよかったのです。村全体が寛容で、ストレスを感じることがない。ほかの住民とも大きな摩擦はありませんでした。今も村を離れるつもりはありません」

農業を中心にした自給自足に近い暮らし

 ここで吉原さんが呼ぶ「先生」とは、「友情」「お目出たき人」の小説で知られる文豪・武者小路実篤のことだ。その実篤が人々の共生と自活を実現するための共同体「新しき村」を創ったのは戦前の1939(昭和14)年。人道主義や理想主義を掲げた文壇流派「白樺派」の創設者として、実践的に理想郷を建設するためだった。

 以来、同志である村民は、過重な労働負担を避け、残りの時間を自己実現に充てるため1日6時間だけ労働し、農業を中心にした自給自足に近い暮らしを送ってきた。

 実篤は最初、1918(大正)年に宮崎県内に同じ村を創設していたのだが、ダム建設計画が持ち上がり21年後に急遽、「東の村」として毛呂山に新たに建設した経緯がある。前述の標柱の言葉も、建設当時の実篤自身の決意を示したものだ。4000坪から始まった「東の村」の面積は拡大を続け、今では約8倍の3万坪強に及んでいる。

 実篤自身が実際に住んだのは宮崎の村での6年間に過ぎなかったが、外部からの積極的な支援は続けた。宮崎県の村は規模こそ小さくなったが、その後も存続している。いずれの村でも、住人である村内会員のほか、村には住んでいないものの、趣旨に賛同して支援する村外会員がいる。村外会員は現在160人ほどだ。毛呂山の村は一般財団法人になっているが、寄付を集めやすくするなどの理由で公益法人化を目指しているという。

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