“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”

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 武者小路実篤といえば、「仲よき事は美しき哉」の言葉を添えた静物画。「長編小説から短い詩まで、生涯に6300篇を超える作品がある」(武者小路実篤記念館)という実篤だが、実は文芸作品以外にも残したものがあった。万人が調和して暮らす理想郷、「新しき村」である。1918年に宮崎県児湯郡で開村したが、ダム建設の影響で1939年に大部分が埼玉県入間郡に移転。戦争を経て現在まで続くその過程には紆余曲折があった。

 ジャーナリストの菊地正憲氏は2006年、村民が20数名に減少していた村を取材。実篤存命時の一風変わった人間関係等を解き明かした。今回の第1回は「新潮45」2006年4月号に掲載されたその記事を、続く第2回では菊地氏が2024年7月に村を再訪した最新ルポをお届けする。

(「新潮45」2006年4月号特集「明治・大正・昭和 13の有名夫婦『怪』事件簿」より「武者小路実篤・房子『新しき村の紆余曲折』」をもとに再構成しました。文中の年齢、年代等は掲載当時のものです。文中敬称略)

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実篤が私財をつぎ込んだ「遺産」

 どんよりとした冬空の中、門柱をくぐり抜けると、一面に茶畑が広がっていた。どこまでも静謐。一瞬、そこだけ時間が止まっているような、そんな感覚を覚えた――。

 埼玉県毛呂山町の「新しき村」。作家武者小路実篤が、万人が調和して暮らす理想郷実現のため、私財をつぎ込み、仲間と生涯を賭けて築き上げた「遺産」である。現在も、20人余りの会員が、農業や養鶏場を営みながら暮らしている。

「村」は、大正7年(1918年)、まず宮崎県木城村(現木城町)の山間に建設された。艱難辛苦を乗り越えて開墾したが、その後、ダム建設のために大半が水没することとなり、昭和14年に埼玉に分村移転した経緯がある。

 それまで住んでいた千葉県の我孫子から最初の「村」に移住したころ、実篤は33歳だった。理想主義や人道主義を標榜し、大正期に隆盛を極めた雑誌「白樺」の創刊者であった上、代表作「お目出たき人」などで既に名声を得ていた時期である。

シンプルな「共生」のユートピア

 実篤は当時の「婦人公論」誌上で、「村」の性格を次のように説明している。

「我等は他人に支配されることを嫌ふものである。同時に自分のなすべきことは責任をもつてなさうと云ふのだ。(略)そして成さねばならぬことだけ協力でして、あとは自由にしやうと云ふのである」(「新しき村について」)

 実篤にとって、「村」建設は文学と並ぶ人生目標だった。自ら農具を持ち、慣れない農作業に勤しむ日々。折しも、ロシア革命が勃発した翌年のことだ。まだ目新しい思想だった共産主義が、理想を求める文学者や芸術家の心を捉えていた時代でもあった。

 シンプルな「共生」のユートピア。実篤本人は大真面目だったのだが、この「村」の人間模様は、実は複雑極まりないものだった。その中心にいたのが、最初の妻房子である。夢を果たす途上で、さまざまな波紋を投げかけたのだ。

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