坂口征二「幻の金メダル」に「本田圭佑の親戚」も…「五輪」と「プロレスラー」の深すぎる因縁を振り返る
自分は五輪を諦めても…
同じく、柔道で「幻の金メダリスト」と今でも語られるのが、坂口征二だ。1964年の東京オリンピック無差別級の金メダルを、オランダのアントン・ヘーシンクに奪われた日本柔道は、坂口をヘーシンクを倒す切り札としていた。身長195センチ、120キロの坂口は、64年の東京五輪は腰痛で参加出来なかったが、翌65年の全日本柔道選手権で優勝、さらに同年の第4回世界柔道選手権の準決勝でヘーシンクとあたり、判定で負けるも大善戦していた。柔道関係者は、「2年後の第5回の世界選手権でリベンジを」としたが、坂口は翌67年2月にプロレス入りを表明。理由の1つは以下だった。
「次のメキシコオリンピック(68年)の種目に、柔道が入っていなかったから……」
やる気が失せてしまったのだった。
「アマチュアでやることに、限界を感じました。プロで勝負してみようと思った」(坂口)
以降、プロレスラーとして“世界の荒鷲”となるのはお馴染みのところである。坂口は、1989年6月、実直な人柄が評価され、参議院議員選に出馬した猪木に代わって新日本プロレスの社長に就任。翌1990年3月に引退した。その2ヵ月後、腕相撲での勝負を挑んで来た男がいた。同窓かつ同学年のマサ斎藤だった。血気盛んな人柄ゆえ、いつの日か腕試しをしたいと考えていたのだ。困惑顔で難色を示す坂口に斎藤は言った。
「よしっ、10万円賭ける! それでどうだ、坂口!」
勝負は、一瞬にしてついた。坂口はますます困った顔になった。
「ギャラから10万、引いておくけど、いいか?」
坂口の社長就任の翌々年、「闘魂クラブ」(現在の名称は「TEAM NEW JAPAN」)が立ち上げられ、アマレスラーを支援する体制が整った。小川直也とは同じ明治大学ゆえ懇意で、それを知った猪木が1990年代半ば、プロレスラーへの転身を持ちかけた。坂口はこう言ってやんわりと固辞した。
「今はやめて下さいよ。彼にはアトランタ(1996年)があるんだから……」
アトランタ五輪を5位で終えた小川は、翌年、「従来にない格闘家像を作りたい」とプロ入り。新日本プロレスはおろか、PRIDEのリングにも進出し、“暴走王”の名で一時代を築いたのは周知の通りである。小川が道場生に説く言葉を、最後に。
「どんな方向でもいいから、夢を持ち続けることを忘れないで。夢を持つことから、人は始まるから」
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