坂口征二「幻の金メダル」に「本田圭佑の親戚」も…「五輪」と「プロレスラー」の深すぎる因縁を振り返る
「エンジョイします」なんてバカヤローだ
パリ五輪では柔道の誤審騒動が話題となり、元バルセロナ五輪柔道銀メダリストでプロレスラーの小川直也がコメントする姿が目立った。小川は現在、自らの柔道場「小川道場」を主宰している。道場の壁には、これまで彼が獲得したメダルが飾られているが、なぜか一番目立つ中央には、何も飾られていない。
「いつか、門下生が金メダルを獲ったら、ここに飾ってやろうって……」(小川)
アスリートにとって五輪とは過酷なだけでなく、それほど意義深い戦場なのだ。そのオリンピックに挑戦し、後に戦いの場をリングに変えたプロレスラーたちについて紹介したい。
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五輪に出場した後、プロレスラーに転じた初めての日本人と言えば、マサ斎藤とサンダー杉山だ。今からちょうど60年前の1964年、2人は最初の東京オリンピックにアマレス日本代表として出場し、いずれも3回戦負けしている。
同オリンピックは、何年も前から日本中が注目していた一大イベントだった。大会の4年前、国士館高校三年生でアマレス部のキャプテンを務めていた斎藤はこう考えたという。
「オリンピックのおこなわれる4年後は、俺は大学4年で22歳。日本にはヘビー級の選手は少ないから、必ず出られる!」
斎藤は当時、既に180センチ、100キロの巨漢だった。東京・中野区の良家の出だった斎藤だが、高校時代は放蕩の限りを尽くしており、五輪に出ることで挽回したいと考えていた。彼の両親も、五輪に向けて海外遠征の資金を提供してくれた。明治大学入学直後の体育会系新人歓迎会の日に、明らかに強そうな同級生と会ったことも斎藤を奮い立たせた。その同級生こそ柔道部の坂口征二である。
斎藤にとって、後にプロレス界の後輩となる長州力は、在日韓国人2世という経歴ゆえ、1972年のミュンヘン五輪にはアマレス韓国代表として参加したのだが(結果は予選落ち。2016年に帰化)、韓国語が喋れないため、ともに参加した選手たちとコミュニケーションが取れず、韓国旗の入ったブレザーやユニフォームも着用しなかった。よく言えば国のしばりなく戦えたと言えるが、東京大会の斎藤はそうではなかった。大会前からアマレス選手団内部の約束で、負けた選手は全員坊主、それも下の毛も含めて刈られたという(サンダー杉山も)。
斎藤は自伝に、こう記している。
〈最近の代表選手についても理解できないことがある。いろいろな競技で耳にする「エンジョイします」という言葉だ。俺から言わせれば、バカヤローだ。(中略)本番のコンセントレーションの高さは、勝つことだけを考えてるから出てくるものだ。(中略)中途半端な根性で、あの魔物が支配する世界で勝つことは出来ない〉(『プロレス「監獄固め」血風録:アメリカを制覇した大和魂』)
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