浪曲から初めての快挙! 二代目京山幸枝若が「人間国宝」に “冬の時代”乗り越え「日本中の人に浪曲を知ってもらいたい」

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 演芸の世界から、7人目の人間国宝が誕生した。大阪を拠点に活躍する浪曲師の二代目京山幸枝若(きょうやまこうしわか・70)だ。これまで落語、講談から名人たちがその栄誉に浴してきたが、浪曲からは初めての快挙である。

幸枝若が急浮上したワケ

 在阪の演芸評論家が解説する。

「昨年は落語家の五街道雲助(76)が人間国宝に選出され、“次は関西から”との期待が高まっていた。28年前の桂米朝(故人)以来、2人目が出てへんからやね。落語家の有力候補は紫綬褒章や旭日小綬章を受けた桂文枝(81)がおるけど演じるのは古典ではなく新作ばかり。数年前には不倫騒動を起こしとる。そこで浪曲の幸枝若が急浮上したワケや」

 これまでに落語界からは、雲助、米朝さんのほかに五代目柳家小さんさん、柳家小三治さん(いずれも故人)が選ばれた。ちなみに講談からも、一龍斎貞水さん(故人)、神田松鯉(81)の二人がその栄冠に輝いている。

「幸枝若は関西の浪曲師団体の浪曲親友協会の会長を務める斯界の重鎮で、昨年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。実の父親は同じ協会で会長を務めた初代京山幸枝若やけど、その事実を幸枝若は10代後半まで知らずに育ったんや」

 理由は初代の放蕩ぶりで、

「そもそも曲師(三味線で伴奏する人)だった母親は、夫の合三味線(専属の曲師)も務めていた。ところが初代は“飲む、打つ、買う”が日常の遊び人で、母親は幸枝若が生後7カ月の時に初代を家から追い出した。その後、母親は興行会社の経営者と再婚した。幸枝若が実の父親の存在を知ったのは定時制高校に通っていた時。フォークソングに夢中だった彼のもとに友人が浪曲のレコードを持ってきた。それが初代の歌声を収録した作品やったんや」

 これが父子を結び付けた。

「曲を聞いた幸枝若は浪曲に強い興味を示し、両親は“血は争えない”と、初代幸枝若が実父だと教えた。幸枝若はショックを受けたものの、“それなら父の弟子になろう”と、20歳の時に弟子入りを果たしたんや」

「夢は日本中の人に浪曲を知ってもらうこと」

 明治末期から戦前に至るまで、浪曲は落語や講談をしのぐ人気を誇った。文字通り“大衆芸能の王様”で、全盛期には3000人もの浪曲師が活躍し、ラジオ各局には多数の浪曲番組があったほど。♪旅ゆけば駿河の国に~と、うなるように歌う広沢虎造の「清水次郎長伝」も街中に流れた。

「幸枝若が入門した昭和40年代から50年代は浪曲人気が衰退し始めた時期と重なる。“お客様は神様です”というフレーズで知られた国民的歌手の三波春夫も、大ヒット曲『王将』を持つ村田英雄(ともに故人)も、もとは浪曲師。その後、歌謡曲に転身して成功した」

 一時、浪曲師は東京の日本浪曲協会と合わせても80人ほどまで激減。“絶滅危惧種”と揶揄された冬の時代を迎えて、二代目幸枝若は「一度は浪曲を諦めて落語や漫才に転身しようと考えたこともあった」という。

 事情を知る関係者が言う。

「年配の漫才師に悩みを打ち明けたりするうちに“浪曲の時代が来た時に備えて力を蓄えておこう”と腹をくくったとか。50歳の時に二代目京山幸枝若を襲名して以来、声、節、たんかの三拍子に磨きがかかった。持ち前の親しみ易い関西弁交じりの軽妙な高座は高い人気を誇り、浪曲界をリードしています」

 最近は浪曲人気が復活しつつあり、東京では玉川太福(だいふく・44)、玉川奈々福(年齢非公表)が、大阪でも真山隼人(29)、京山幸太(30)ら中堅から若手が人気だ。

「先の会見で幸枝若は“夢は日本中の人に浪曲を知ってもらうこと”と宣言。同時に若手の育成塾を作る構想を明かしました」

 東京は浅草の木馬亭が、大阪では天王寺の一心寺が、浪曲の定席としてにぎわっている。

週刊新潮 2024年8月8日号掲載

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