「途中で死を何度も感じた事だ」伝説のマラソンランナー「君原健二さん」が語ったオリンピックの光と陰

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「俺の横には素晴らしい成績を収めた人間が寝ている」

 だが本番2日前の日記には、千々に心乱れる様々な思いが書き留められている。

「あと四十五時間もすれば 就職試験の発表と同じほど将来に影響する結果になるのではないだろうか それにしてはあまりにも興奮しないのは あまりにも多くのことで気をまぎわす為だろう しかし俺はこの大会を祭り此以上に考えぬよう努力せねばならぬ 知らない人 知っている人から お守りや千羽鶴等をもらって それをどう処分しようかと迷う 必勝祈願 祝優勝祈願等はすぐに破って捨てるようにしている 神仏は信じなく たよることのないようするつもりが 捨ててばちが当たりはしないかと恐れるのである」
 
 翌20日の日記。

「あと二十時間余りで 何百日も前から目指して来た結晶が現れる 今日はさすがに興奮し 練習もあちこち痛みを感じ走りづらかった 今日また千羽鶴をもらった 一生懸命祈って作った千羽鶴を 俺はなんと無情なあつかいをするのだろう しかし俺にはどうしようもない」

 そしてレース当日の日記には、こんな言葉が絞り出されている。

「今から約一時間余り前にレースは終わった 俺にとっては少々みじめなレースであった しかし成績は正しい 何とも云訳けなんか出来るはずはない しかし俺は世界の選手を相手にレースをするには全く駄目な男だ こんな大事なレースに俺は何度レースを投げようとしたろうか 全く恥るべき態度だ」

 その2日後には、胸の内を、正直に短く綴っている。

「俺の横には素晴らしい成績を収めた人間が寝ている。すべての人々から賞め誉えられる それを見てねたみ 寂しくなる」(原文ママ)

「東京オリンピックという乗り物から降りた感じ」

 10月26日、君原は約50日ぶりに福岡県の我が家に帰り着く。玄関をくぐった時、「やっと東京オリンピックという乗り物から降りた感じ」を満腔に味わう。

 2日後、所属していた会社の陸上部に退部届を出し、陸上競技から離れることになる。月末の日記には、その後コーチとの話し合いを持ったことが記されているが、そこにある一文の意味をあらためて君原に問うてみた。この一文の真意は何を物語っているのでしょうかと。

 君原はときに目を閉じ、沈黙と、「うーん」「そうですね」「やっぱり…、ちょっと」と短い言葉を交互に繰り返す。ようやく5分余り経て、こんな言葉を紡ぎ出した。

「うーん、そうですね、やっぱり追い詰められていたのかもしれませんね」

 日記の一文には、こう記されていた。

「今日の話合で注意せねばならぬことは 途中で死を何度も感じた事だ それも簡単に 安々と自殺する俺を この敗北だけはやりたくない」

 オリンピックの陰の濃さと深さを思い知らされる。

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