「今日は円谷君のために走ろう」…メキシコ五輪・マラソン銀メダリスト「君原健二さん」が明かした「あの日、なぜ後ろを振り返ったか」

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「何と可哀想な英雄だろう」

 広島の全日本実業団対抗選手権では、君原と円谷は2万メートルに出場した。これが二人そろって一緒に走った最後のレースとなり、最後の顔合わせでもあった。
 
 そしてその8ヵ月後に、「父上様 母上様 三日とろろ美味しうございました」「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の遺書を残して、円谷は自衛隊の宿舎内で右頸動脈を剃刀で掻き切って自死した。27歳の若さだった。

 円谷自殺の一報をマスコミから聞かされた君原は、翌日の日記に、こう記している。

「円谷君自殺 何と可哀想な英雄だろう 世間の人々は誰一人として あの素晴らしい誉の使い方を教えてやらなかった 彼は名誉に押しつぶされたのだ(中略)いかにオリンピックの 民族の代表といえども個人だ 民族の期待に答えようが答えまいがどうでもよいのだ 自分が競争したいから 選ばれたのだから 勝手に競争すればよいのだ(中略)東京オリンピックをともに経験した俺は彼の気持ちがよく解る気がする 先ほどふと思い付いたのだが もし俺がオリンピックで3位に入賞していたのなら俺がやっただろうと思って恐怖した」(原文ママ)

 君原はメキシコ五輪でスタートラインに立った時、その脳裏に、「このレースを本当に走りたかったのは円谷君だから、今日は円谷君のために走ろう」との思いがよぎったという。
 
 だが、走り始めてからは円谷のことを思い浮かべることは全くなかった。

「だからゴールが近づいたとき、なぜ振り向いて後ろをチェックしたのか、まるで4年前の円谷君からのインスピレーションがそうさせたのか、あるいは円谷君の教訓が私に伝わってきたものなのか――。レースが終わってからですが、そんな思いが浮かんできました。私はきっと円谷君から支援されていたんだなと、なぜかそんな気がするのです」(敬称略)

第2回【「途中で死を何度も感じた事だ」伝説のマラソンランナー「君原健二さん」が語ったオリンピックの光と陰】では、3度の五輪を経験した君原さんが、日の丸を背負って世界と競う選手の偽らざる心境を吐露している。

君原健二(きみはら・けんじ)
1941年生まれ。福岡県北九州市出身。マラソンランナー。1964年東京オリンピック8位。68年メキシコシティオリンピック2位。72年ミュンヘンオリンピック5位。

飯田守(いいだ・まもる)
徳島県生まれ。「月刊現代」「週刊現代」などの記者を経てライター、編集者に。財界人やスポーツ選手のインタビュー、鉄道、紀行文を手がける。著書に『みんな知りたい!ドクターイエローのひみつ』(講談社)。

デイリー新潮編集部

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