「今日は円谷君のために走ろう」…メキシコ五輪・マラソン銀メダリスト「君原健二さん」が明かした「あの日、なぜ後ろを振り返ったか」
「円谷頑張れ!円谷頑張れ!」
ここで時計の針を4年前の、東京・国立競技場に戻す。7万5000人の大観衆の前で、同じようなシーンが描かれていることを、同時代を生きた国民ならすぐに思い起こすだろう。
2位でマラソンゲートをくぐった円谷幸吉だ。真後ろといっていい20メートルほど背後に、猛追するヒートリー(英国)が迫り、ラジオの実況が「円谷頑張れ!円谷頑張れ!」とただ連呼する叫喚の世界が描かれていた。円谷は抜き去られるその瞬間まで、ヒートリーの存在にまったく気づいていなかった。
円谷は君原とは別の理由で、振り返ることをしなかった。
円谷は、軍隊帰りで我が子に厳格な教育をした父・幸七から、「男たるもの、後ろを振り向いてはならぬ」との教えをきつく叩き込まれていた、といわれてきた。その「父の教え」をすべてのレースはもちろんオリンピックの舞台でも守っていたのだと。だが、競技場手前でもし振り返って後方との差を確認していれば、もしかすると2位を死守できたのではないか、ともいわれた。
国立競技場の第2コーナーで、「幸吉!幸吉!」と周囲の誰よりも必死に連呼する男がいた。7人兄弟の末っ子の幸吉より8歳年上の兄、円谷喜久造だ。喜久造はかつて私の取材に、「腰が落ちたフォームで走り、あんな顔をした幸吉はそれまで一度も見たことがなかった」と述懐した。
その喜久造によると、巷間、美談じみて伝えられた「父の教え」は、微妙に違っていた。
「幸吉が小学4年の運動会の駆けっこで、先頭の子が後ろを気にしてしょっちゅう振り返りながら走っていたのです。それを見た親父が、『何度も後ろを見るのはみっともない。勝っても負けてもいいから、自分の力を精一杯出して走ればいいんだ』と幸吉に話していました。それが心の底にずっと残っていたんでしょう。だから幸吉は後ろを振り返るような走りは子どものころから一度もしていません。その意味で、幸吉はオリンピックで、わずか3秒差で3位になりましたが、親父のいう通りの走り方で力のすべてを出し切ったと思います。『男たるもの』は、当時のマスコミが少し作ったものでしょう」
「それが国民に対する約束だから」
8位でゴールインした君原は、競技役員に支えられて控室のベッドに横たわった。少しして回復し周囲を見渡すと、「疲れ果て、打ちひしがれ、なんて悲しそうな顔をしているのだろう」と思える円谷の姿が目に入った。途中棄権したのだろうかと早合点した君原は、円谷に声をかけられなかった。目が合った円谷も、ひと言も発しない。
その円谷はレース直後の記者会見で早々と、「(次の)メキシコを目指して4年間頑張ります」と雪辱を誓う言葉を語っている。同じ言葉を、それから2年半後の1967年5月に、広島県で開催された全日本実業団対抗選手権での控室で君原にこうもらしている。
「来年のメキシコオリンピックで、もう一度メダルを獲るんだ、日の丸を掲げる。それが国民に対する約束だから」
いったい国民の誰が、円谷にそこまで追い求めさせ、約束させたというのだろうか。円谷と同世代だった君原は、円谷にライバル意識を持ったことはないという。
「彼に勝ちたいとかライバルだという意識ではなく、同じ目標に向かって苦楽を共にした、かけがえのない同級生という思いでした。一緒に精一杯走ろうよと、そういう気持ちでいたのは円谷君も同じだったと思います。円谷君のいう『国民に対する約束』? 国を守る自衛隊員だった円谷君と民間企業に勤める私との違いというのもあるでしょうけど、私にはそんなものはないです。彼は風呂に入るときに脱いだ下着をきちんとたたむような几帳面で本当に生真面目な性格。強すぎるほどの責任感を持つ男でした。だから東京の大観衆の前で抜かれたことが、彼には言いようのない恥辱だと感じていたのでしょう。その雪辱を『国民に対する約束』にしてしまったのではないですか」
[2/3ページ]