没後4年「渡哲也」が受け継いだ「石原裕次郎」の“人生流儀” 「石原良純」「みのもんた」が証言する
高倉健の後継者
1965年に銀幕デビューした渡に転機が訪れたのはアクションスターとしての地位を確立しつつあった71年。渡はロマンポルノ路線に舵を切った日活を退社する。各社が争奪戦を繰り広げるなか、渡が選んだのは巨額の借金で倒産寸前に追い込まれていた石原プロだった。
その頃、渡が裕次郎を訪ね、「これを役に立ててください」と全財産である180万円を持参したことは語り草になっている。渡は経営が火の車だった石原プロを鼓舞し、テレビドラマに本格進出。「大都会」や「西部警察」を大ヒットに導いて見事に事務所の経営を立て直す。
そんな渡が東映で初主演を果たしたのは、深作欣二監督の「仁義の墓場」(75年公開)。この作品での演技を高く評価したのが、当時の岡田茂東映社長だった。
先の脇田氏によると、
「岡田社長は『仁義の墓場』で渡さんを見初めたんですね。それで、“『仁義の墓場』の慰労会を開きたいから渡君を呼んでくれないか”と僕に声が掛かった」
脇田氏と渡は赤坂の料亭に招かれたのだが、その席上、岡田社長はこう切り出したという。
「渡君、高倉健の後を君にやってもらいたいんだ」
この時すでに高倉健の東映退社が決まっており、岡田社長は後継者として渡に白羽の矢を立てたのだ。
引き抜き話を聞かされていなかった脇田氏は面喰らったそうだが、当の岡田社長は真剣な口調で渡を口説き続けた。岡田社長は“東映の天皇”と呼ばれ、日本映画の黄金期を築いた立役者。しかも、あの高倉健の後釜に指名されたのだから、これ以上の口説き文句はあるまい。だが、“映画界のドン”の説得にも渡は動じることはなかった。
「尊敬する岡田社長のお話は大変有難いのですが、それだけは勘弁してください。恩人である石原裕次郎を裏切ることはできません」
ふたりのやり取りを目の当たりにした脇田氏は、
「まるで仁侠映画のワンシーンに居合わせたような心境でした。裕次郎さんへの一途な思いを貫いた渡さんも立派なら、岡田社長もさすがでね。“渡君、分かった。ただ、東映にも出てくれよな”と言って和気藹々と飲み始めたんです。いやぁ、惚れ惚れしましたよ。まだ義理と人情が通用した時代の秘話ですね」