没後4年「渡哲也」が受け継いだ「石原裕次郎」の“人生流儀” 「石原良純」「みのもんた」が証言する

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ひっそりと営まれた家族葬

 昭和、平成期の名優・渡哲也が世を去ってこの8月10日で4年。彼の人生は石原裕次郎への恩義に貫かれたものだった。石原良純、みのもんたらが義理と人情に彩られた人生を明かす。(「週刊新潮」2020年8月27日号記事を再掲載。表現の一部を修正しました)

 都内が最高気温34度の酷暑に見舞われた2020年8月14日――。照りつける真夏の陽射しの下、大田区久が原にある瀟洒な一軒家から姿を現した“夫人”を乗せて、ミニバンが静かに走り出した。向かった先は目黒区内の古刹である。

 正午過ぎ、ファンや報道陣の目を避けるようにひっそりと営まれたのは、渡哲也の“家族葬”だった。

「参列したのは俊子夫人ら親族と石原プロモーションの幹部数人のみ。彼の背中を見続け、行動を共にしてきた弟分の舘ひろしすら参列は叶わなかった」(芸能デスク)

 実際、俊子夫人は自宅を出入りする際にグレーのカーディガンを羽織り、喪服と悟られないよう注意を怠らなかった。その後、寺を出発した霊柩車は渋谷区内の斎場に到着し、渡は荼毘に付されたのである。

 この日の晩になってようやく、石原プロは、渡が10日に入院先の病院で逝去していたことを公表した。死因は肺炎だった。

“昭和最後のスター”の秘せられた死――。

 実は、本誌(「週刊新潮」)は“渡が虎の門病院に緊急搬送され、その後に亡くなった”との情報を事前に入手していた。

 病院関係者によると、

「渡さんは持病の肺気腫や喘息に苦しめられ、酸素吸入器をつけて自宅療養を続けていました。容体が急変したのは9日早朝。すぐに緊急搬送され、緊急外来で治療を受けた後、循環器内科に引き継がれている。しかし、残念ながら翌10日に、奥さんに看取られながら息を引き取ったのです」

 当初、この情報は一切伏せられていたが、事は大衆に愛された大スターの安否である。本誌が数日間にわたって渡家の動静を取材していたところ、冒頭の場面を目撃することになった。

 芸能デスクが続ける。

「ここ数年、渡さんの健康状態を危ぶむ声を耳にしたのは一度や二度ではない。実際に死線を彷徨(さまよ)ったこともあり、死の5年前には急性心筋梗塞の大手術も受けた。ただ、そのたびに不屈の精神で乗り越えてきた」

 その原動力となったのは言うまでもなく、“石原”の金看板を支え続けるという強固な意志の力だろう。

 渡は昭和を代表する国民的スター・石原裕次郎に憧れ、慕い続けた。1987年に裕次郎が亡くなると、自ら石原プロの社長を継いで事務所を支えてきた。

 だが、あれほどの生命力を見せてきた渡は“悲願”が達せられてから、わずか1カ月足らずで帰らぬ人となってしまう。おかしな表現と思われるかもしれないが、悲願とは、本誌(「週刊新潮」2020年7月16日発売号)がいち早く報じた“石原プロの解散”に他ならない。

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