92年前に金メダル「バロン西」 馬にも高級外車にも乗った破天荒な生涯と「硫黄島での最期」
日本には一台しかなかった十二気筒のパッカードを乗り回した
競技外の生活は、かなり派手だったそうだ。西の若いころから亡くなるまでを描いた小説『硫黄島に死す』(城山三郎著、新潮文庫)には、こんな記述がある。
<士官候補生時代からロードスターのオートバイを乗り回した。ロサンゼルスから帰ると、モーターボート「ウラヌス二世」で、水の上でも暴れまわった。自動車も、なみのものでは満足できなかった。格も柄も人に負けぬものをと思った。ロールスロイスを買い、さらには当時日本には一台しかない十二気筒のパッカードを買った。エンジンの前正面と、側面につけた予備タイヤは金色に塗り立て、どこでも人目についた。ガソリンを垂れ流して走るような感じの金を食う車であった。>
モーターボートにつけた「ウラヌス二世」という名前にも、西の愛馬精神が表れている。ロスでオリンピック競技が行われる前、馬好きの富豪が各国の馬術選手をビバリーヒルズの屋敷に招き催された夜会に際しては、こんな豪快なエピソードも描かれている。
<何かの競技の優勝盃にシャンパンを満たし、それを飲み干した者に当夜随一の美女に接吻させるということになった。大きな銀の優勝盃であった。シャンペン一本では足らず、さらにいくつか注ぎ足した。だれも飲めなかった。西が進み出た。強くもないのに根性で飲み、とうとうみごとに飲み干してしまった。満場の拍手。西は胴上げして祝福された。だが、床に下ろされたときには、もう立てなかった。四つん這いに這うのがやっとであった。>
こんな性格である。大方の日本人が蔑まれるなか、西は例外的に西欧の女性にモテたそう。ハリウッド女優を両脇に侍らせ、夜の社交場に繰り出していたという伝説も残っている。
小説の中には、こんな描写も。
<ロサンゼルスから西は夫人の武子に当てて、たった一回、葉書を書いた。(おれはもててるよ。アバよ。)ただ、それだけであった――。>
ただ、西が派手な装いをしていたのには理由がある。馬上颯爽と指揮を執る騎兵士官は軍の中でも花形であった。「一に服装、二に顔、三に馬術」と言われたほど、騎兵士官は伊達者であることが重要だったのだ。服は体型を保ち、顔には知性をにじませる。技術はそのあとという訳だ。
硫黄島への赴任前、ウラヌスのもとを訪れている
しかし、騎兵部隊が時代遅れになったように、西の生き方も時勢に合わなくなっていく。そして命じられた戦地は、騎兵など1ミリも通用しない地獄の戦場だった。
1944年の6月に、西は硫黄島へと赴いている。ロスの栄光から12年後のことだった。爵位を有する金メダリストであっても、戦禍を逃れることはできなかった。
戦地に発つ前、家族と過ごすために与えられた束の間の休暇を使い、西は世田谷の馬事公苑に赴いた。年老いたウラヌスに別れの挨拶をするためである。ロス五輪の功労馬として、平和な余生を過ごすはずだったウラヌスも、戦時下の苛烈な環境を強いられていた。
<ウラヌスもすっかり老いた。体高五尺七分五寸、補助者がなければ乗れなかったばかでかい体も、一回り小さくなり、腰骨の張りが眼についた。飼養も運動も十分でないことが、一目でわかった。騎兵の消滅にともない火の消えたような獣医学校の病馬厩舎のはずれで、彼はいわば飼い殺しの運命にあった。殺されぬことだけが、功労馬の身上でもあるかのように。>
<功労馬ウラヌスは、西を認めると、蹄で床をたたき、光沢のない鼻面を寄せてきた。尻尾の動かないことだけが、変わらなかった。神経でも切れているのか、ウラヌスは以前から尻尾を振れなかった。肋の透いて見える胴か尾部にかけて、ハエがびっしりついていた。無駄とは知りながらも、西は竹箒をさがして、そのハエを追い散らした。箒を戻すと、黒い粒はまた見る間にウラヌスの肌にはりついて行った。ハエはたかをくくっていた――。>
西は、「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていたそうだ。
硫黄島への赴任は、すなわち死を意味していた。補給で内地に戻った際、引き上げを打診されたそうだが、「だめだ。部下が待っている」と、体調不良を押して再び死地へと帰っていったという逸話も残っている。
戦地には、エルメスの乗馬長靴を持って行ったと伝えられる。また諸説あるが、最期は片手には拳銃、もう片手にはロス五輪で愛用した鞭を手に、そしてウラヌスのたてがみを懐に抱き、敵陣地へと突撃していったそうだ。1945年3月没。42年の生涯だった。
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西竹一の姿は、伊原剛志が演じる「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督作品)でも描かれているほか、文中でも触れた『硫黄島に死す』(城山三郎著、新潮文庫)で、より詳しいエピソードを知ることができる。